「利」とは何だろう

文字数 1,913文字

 このころ、(すう)の人、孟軻(もうか)(いわゆる孟子(もうし))が()惠王(けいおう)(まみ)えました。王はおっしゃいました。

(そう)(ご老人)よ、千里(せんり)すら遠いとせずに来てくださった、いったいわが国を()してくださることがありますでしょうか?」

 孟子は言いました。

「君よ、どうしてかならず利するというような内容のことを申しましょう、仁義(じんぎ)があるのみでございます!

 君よ、あなたが、「どのようにわが国を利してくださいますか?」大夫(たいふ)が、「どのようにわが家を利してくださいますか?」士庶人(ししょじん)が、「どのようにわが身を利してくださいますか?」そのようにそれぞれ問えば、上下はかわるがわる利を求め、国は(あやう)いのです。

 (じん)があってその親しい者をおろそかにする者はおらず、()を重んじてその君を後にする者はないのです。」

 王はおっしゃいました。

()し。(そのとおりです)」

 ここでは国を利することと、それを身近に近づけて考えている孟子の考えが述べられています。

 一方で、(はじ)め(かつて、それ以前に)、孟子の()子思(しし)が、(こころ)みに牧民(ぼくみん)(民を治める)の道は何を先にするかを孟子に問うたことがあります。

 子思はおっしゃいました

「先に民を利しなさい。」

 孟子は答えました。

「君子が民を教える手段は、仁義だけなのです。どうして利しましょう!」

 子思はおっしゃいました。

「仁義は(もと)より(もともと)民を利する手段である。上のものが仁でなければ下のものもその所(本分(ほんぶん))を得ない。上が義でなければ下も(いつわ)りをすることをのぞむ。これは仁義でなければ大きなものを利せないということだ。

 だから周易にいっておる『利者、義之和也。』(利は、義の()なり、と。易・乾卦・文言伝、つまり利とは義にかなったものである、ということか)

 またいっておる、『利用安身、以崇德也。』(利もって身を安んじ、以て徳を(たか)める、と。易・繋辞伝、利で身を安んじ、徳を崇める)これはみな、利の大なるものを語ったものなのだ。」と。

 ここでは、孟子と(りょう)(魏)の恵王、孟子と子思(孔子の孫)の話がつながって書いてあります。

 ここでは「利」というものが説かれているようですが、微妙で私には説ききれていないかもしれません。

 こちらは国ではなく、民を利すことが重要である、ということが書かれているようです。国と民との違いを味わっていただければと思います。

 司馬光(しばこう)はこの二つのやり取りについて、見識を披露(ひろう)しているので紹介しておきます。

「臣の光が申し上げます。

 子思、孟子の言は、一つなのでございます。そもそもただ仁者だけが仁義が利となることを知っており、仁ではない者はそれを知らないのでございます。だから孟子は梁王に(こた)えたのに、ただ仁義だけで利の話におよばなかったのは、(子思のように)ともに語るにたる人と違ったからなのでございます。(だから論じなかったのです)」

 仁義によって、民に利がある、得られるものがある、しかし民ではない国というものを持ち出してはいけない、そういうことなのかもしれません。

 さて、(しゅう)顯王(けんおう)の三十四年(B.C.三三五)

 (しん)(かん)を伐ち、宜陽(ぎよう)を抜きました。

 続く三十五年(B.C.三三四)

 (せい)王、魏王が徐州(じょしゅう)に会してそれぞれお互いを王としました。

 韓の昭侯(しょうこう)は高い門を作りました。屈宜臼(くつぎきゅう)が申しました。

「わが君(昭侯)はきっとこの門を出られないだろう。どうしてか?時ではないからだ。

 私のいわゆる時とは、時間や日にちのことではない。それ人には固より『()(状況がいい)』というものがある、時が利してないのだ。

 往者(さきには)、君はいつも利を得られ(状況を判断して)、高門を作られなかった。

 前年、秦が宜陽を抜き(当然、韓は迎撃のため戦った後である)、今年は(ひでり)した。

 君はこの時をはかり民を(あわ)れむことを急にせず、かえって(こころ)みるに高門などをつくり、ますます(おご)られている。

 これはつまり時に国が衰耗(すいもう)しているのにその弱き民を強いて立たせるようなものなのだ。だから、時でない、というのだ。」

 屈宜臼の民を想い、君を嘆く言葉です。

 さて、越王の無強(むきょう)が齊を伐ちました。齊王は人をつかって無強に説かせました、齊を伐つことは楚を()つ利益にかなわない、と。そこで越王は楚を伐ちましたが、楚の国人は大いに越を(やぶ)りました。楚は勝ちに乗じてことごとく吳の故地(こち)をとりました。東は浙江(せっこう)に至るまででした。越はこの敗北で散りぢりになり、諸公族が争い立ち、あるものは王となり、あるものは君となり、海上にまで及び(国を作り)、楚に朝服(ちょうふく)しました。

 三十六年(B.C.三三三)

 楚王が齊を伐ち、徐州を囲みました。

 韓の高門が完成しました。昭侯が(こう)じ(その逝去は屈宜臼の言のとおりでした)、子の宣惠王(せんけいおう)が立ちました。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み