楚の動きに注目せよ

文字数 1,255文字

 (しゅう)赧王(たんおう)の十一年(B.C.三〇四)。

 (しん)王と()王が黄棘(こうきょく)(ちか)いました。秦はまた楚に上庸(じょうよう)を与えました。

 十二年(B.C.三〇三)。

 彗星(すいせい)(あらわ)れました。

 秦が()蒲阪(ほはん)晉陽(しんよう)封陵(ほうりょう)を取りました。また(かん)武遂(ぶすい)を取りました。

 (せい)と、韓と、魏が、楚が従親(しょうしん)にそむいたために、兵を合わせて楚を()ちました。楚王は太子の(こう)を秦に人質として差し出し、救いを求めました。秦の客卿(かくけい)(とう)(人名)が兵を率いて楚を救ったので、齊、韓、魏の三国は兵を引いて去りました。

 十三年(B.C.三〇二)。

 秦王、魏王、韓の太子の(えい)臨晉(りんしん)に会し、韓の太子は咸陽(かんよう)に至って帰りました、秦はまた魏に蒲阪を与えました。

 秦の大夫で(ひそ)かに楚の太子と闘う者があり、楚の太子は大夫を殺し、()げ帰りました。

 十四年(B.C.301)。

 日食がありました。(日食は、陰(月)が陽(日)を侵すものとして通常()まれます)

 秦が韓の(じょう)を取りました。

 (しょく)の郡守であった()(人名)が秦に叛いたので,秦の司馬錯(しばさく)が往って誅殺(ちゅうさつ)しました。

 秦の庶長(しょちょう)(かん)が韓、魏、齊の兵と協力して楚を伐ち、その()(軍隊)を重丘(ちょうきゅう)に破り、その将軍である唐昧(とうばつ)を殺して、遂に重丘を取りました。

 (ちょう)王が中山(ちゅうざん)を伐ち、中山の国君は齊へと逃げだしました。

 十五年(B.C.三〇〇)。

 秦の涇陽君(けいようくん)が齊の人質となりました。

 秦の華陽君(かようくん)が楚を伐ち,大いに楚の軍を破り、首級(しゅきゅう)・三萬を挙げ、その将軍、景缺(けいけつ)を殺し、楚の襄城(じょうじょう)を取りました。楚王はおびえて、太子を人質として齊に送り、和平(わへい)を請いました。

 秦の樗里疾(ちょりしつ)()くなり、趙人の樓緩(ろうかん)丞相(じょうしょう)としました。

 趙の武靈王は少子(しょうし)(末っ子?)の()を愛し、その誕生により太子を廃し、何を立てたいと思うようになりました。

 十六年(B.C.二九九)。

 五月戊申、東宮(とうきゅう)朝臣(ちょうしん)大会(たいかい)させ、武靈王は国を末子(まっし)の何に伝えました。王(何)は先祖代々の(びょう)で先祖の神霊(しんれい)(まみ)える礼が(おわ)ったのち、廟を出て朝廷に(のぞ)みました。王は少年であり、肥義(ひぎ)相国(しょうこく)となって、あわせて王の()守役(もりやく))となりました。(ちなみに、相国という位はここに始まりました)

 武靈王は自ら「主父(しゅほ)」と号しました。「国主の父」という意味です。

 主父は子の何が国を治められるようにさせようとし、自らは胡服(こふく)し、士大夫(したいふ)を率いて西北に胡地を攻略しました。雲中(うんちゅう)九原(きゅうげん)から胡の地に入り、南下して咸陽(かんよう)へ入りました。そしてここにおいて(いつわ)って自らを趙の使者とし、秦の宮廷に入りました。この機会に秦の地形や秦王の人となりを視ようとしたのです。

 秦王は主父を知らなかったのですが、その身なりが甚だ偉丈夫(いじょうぶ)なので(あや)しみ、人臣の()を越えているとして、人を使って主父を()わせましたが、主父は行軍してすでに函谷関(かんこくかん)を脱出した後であったので、そこで(くわ)しくこの一行のことを調べると、それは主父、つまり趙の元国王であることがわかりました。秦人は大いに驚いたといいます。

 この年、齊王と魏王が韓に会しました。

 以上、周の赧王の十一年(B.C.三〇四)から十六年(B.C.二九九)のことを雑記しておきました。
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