齊の湣王、敗走す
文字数 1,529文字
齊の湣王は桀宋を滅ぼしたあと驕り、そこで南に楚の国を侵し、西に三晉(韓・魏・趙)を侵し、二周(東周・西周)の王と並び、天子になりたいと望みました。狐咺という臣が議論で正しましたが、檀台のある衢で斮りました。陳舉という人物が直言しましたが、東閭(東の門)に殺しました。
齊の北の国、燕の昭王は日夜その国人を撫循し、ますます国が富み栄えるようになりました。そこで家臣の樂毅と齊を伐つことを謀りました。
樂毅はいいました。
「齊の国の領域は霸国の余業です(春秋時代、桓公の時代に管仲を宰相とし、天下の覇者となった。その勢いを駆って大国となり、クーデターにより田氏がのち主君・姫氏一族にとってかわったのちも大国としての勢いは衰えなかった)。地は大きく人は衆く、まだわれらのみで攻めるのは簡単でございません。王が齊を伐とうとお望みならば、趙や、楚、魏と盟約するのが最上です」
そこで樂毅が主となって趙と盟約し、別に使者を遣わして楚、魏とも連携し、また趙の使者を利用して秦に齊を伐つという利益を説き含ませました。諸侯は齊王の驕暴を害っており、みな争って燕の謀に参加し、齊を伐ちました。
三十一年(B.C.二八四)
燕王は国中の兵を徴発して兵(軍隊)を編成し、樂毅を上将軍としました。秦の尉・斯離が秦軍と三晉の軍を率いて燕軍に合流しました。趙王は相国(大臣)の印を樂毅に授け、樂毅は秦、魏、韓、趙の兵のすべてに並びに将軍となりその軍を集め、指揮して齊を伐ちました。
齊の湣王も国中の衆を悉くして敵国の軍たちを拒ぎ、濟水の西に戦いましたが、齊の軍は大敗しました。
樂毅は秦、韓の軍を還させました。魏の師(軍隊)を分遣して故の宋の土地を侵略させ、趙の軍を分割し、その兵が河間(黄河の間か?)の土地を収容するのを認めました。
秦、韓は齊よりはるかに遠いため、まずその軍を還しました。宋の土地は魏に近く、宋は魏に攻略させました。河間は趙に近く、そのため別動隊という方略を用いて趙軍に河間をとらせました。
身ずからは燕の軍を率い、長駆して北へ齊軍を逐いました。
劇辛が申しました。
「齊は大きく、燕は小そうございます、諸侯の助けに頼ってその力で齊の軍を破りました、どうか齊の衰亡期という時にしたがって攻めてその辺城(辺境の城)を取り、燕自らを益すことで満足する、それこそが長久の利益ではございますまいか。今、辺城を通り過ぎて攻めず、そして深く齊の地に入ることを軍の名目として進んでおります。これは結局、齊を損なうことなく、燕を益すこともなくして深い怨みを結いつけることになります、後で必ず後悔しますぞ」
樂毅は答えました。
「齊王は功を伐り能も矜り、その謀は下の時代に逮ばず、賢良を廢黜(退けること)し,諂諛(おべっか使い)を信任し、政令は戾虐(もとり残酷)で、百姓(国民)は怨み懟ている。今、齊軍はみな破れ亡げており、もしこの機会により、この勢いに乗ずれば、その民は必ず叛くはずだろう。禍乱が齊の內に作らば、齊はわが図(版図)となるはずだ。もし最終的にこの機を生かさなければ、齊が前の非(行った無道)を悔い、過を改めて下を恤みて国民を撫すのを待つことになり、そうすれば齊の土地を慮ることは難しいだろう」
そして遂に軍を進めて齊の地に深く入りこみました。齊の人は果して大いに乱れ、度を失い、湣王は王都を出て走げました。樂毅は臨淄に入り、寶物、祭器を取り、それらを燕に輸送しました。燕王は親から濟水の上にやってきて軍を労い、賞賜を行って士を饗しました。樂毅を封じて昌國君(燕国を昌(さか)んにした君という意味を持つ)とし、さらに齊に留めて齊の城のまだ下らない者を計略させることにしました。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)