周、その終わりを迎える

文字数 1,330文字

 ここに確認しておきます。

 二十余人、秦の太子の子はおりました(異人は太子の子である)。

 しかし、太子は長平の戦いの起る前に人質となっていた魏において亡くなっています。その間に、夫人と契約を結んで、自分の息子を立太子する余裕というか、意図があったのでしょうか。

 また太子の息子、王太孫を趙に派遣していたわけですが、それは何時頃のことだったのでしょう。王太孫に価値がないのならば、人質に価値はありません。

 事実をみてみましょう。まず王太孫(異人)に価値があったから、趙は人質としたことが考えられます。嫡孫だから、趙は人質としたのではないでしょうか。単なる庶子なのに、秦国から人質に出す必要があるでしょうか。身分が(いや)しいのに、人質とする必要があったのでしょうか。

 ここは異人が賤しく、礼遇されなかったという点はもう一度考えてみる必要があるとも思いますが、本当のところはわかりません。。

 あと自分が意外に思ったのは、呂不韋が陽翟(ようてき)の人だということ。秦の首都などの商人ではないということです。

 呂不韋は趙の商人でもありません。陽翟(ようてき)というのは韓の旧首都です。衛の国とも言います。黄河流域の都市です。

 このころ秦に併合されていたのかを調べたのですが、どうも違うらしい。衛か、韓の領土だったらしいのです。その商人が、趙の都まで出向いて異人に会ったわけです。数奇(すうき)な運命といえるのではないでしょうか。

『通鑑』はさらに数奇な物語をつけ足しています。


 呂不韋(りょふい)邯鄲(かんたん)の諸姫でとびぬけて美しいものと住んでおりました、そのうちに(自らと交わってでしょう)妊娠したものがあることを知りました。

 異人(いじん)は不韋のところで飲んだところ、その姫をあい譲り受けたいと願いました。不韋は怒るふりをして、すぐさまこの姫を献上しました。

 はらむこと期日通りで子の(せい)を生みました。秦王・政、つまりのちの始皇帝です。

 異人は遂に姫を夫人としました。

 数奇な物語ではないでしょうか。事実かはわかりませんが、この話が呂不韋の政治生命に大きな影響を与えることになります。

 さて邯鄲の攻囲戦では、趙の人は異人を殺そうとしました。異人は不韋とともに、金六百斤を守る者(守衛か?)に与えてさりました。脱亡(脱走)して秦軍に(おもむ)き、遂に秦に帰ることができました。

 異人は楚の服をきて華陽夫人にあいました。

 夫人はおっしゃいました、

「わたしは楚人である。この子を自らの子としよう。」

 そこで異人の名を改めて『楚』といいました。

 翌、周の赧王(たんおう)の五十九年(B.C.二五六)

 秦の将軍の(きゅう)が韓を伐ち、陽城(ようじょう)負黍(ふしょ)をとり、斬首すること四万でした。

 また趙を伐ち、二十余県をとり、斬首したものや(とりこ)が九万でした。

 赧王(たんおう)は恐れられ、秦に(そむ)き、諸侯と連縦策を約束され、天下の鋭い師(軍)をひきいて伊闕(いけつ)(洛陽の南の関所)より出でて秦を攻め、陽城へとおることができなくしようとされました。

 秦王は将軍の摎をして西周を攻めさせ、赧王は秦に入り、頓首(とんしゅ)して罪を()けられました。ことごとくその邑・三十六、口・三萬を献じられました。

 秦はその献上物を受け、赧王を周に返しました。この歲、赧王は崩じられました。

 ここに周はおよそ三十七王、八百六十七年で亡びたのです。
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