齊亡ぶ、そして秦王、始皇帝と号す
文字数 1,624文字
齊王はまさに入朝しようとしましたが、雍門 の司馬 がすすみて申しました。
「王が立たれたわけは、社稷 のためですか、王のためですか?」
王はおっしゃいました。
「社稷 のためである」
司馬 は申しました。
「社稷 のために王は立たれたのに、王は何のために社稷 を去りて秦に入られるのですか?」
齊王は悟 られるものがあったのでしょう、車をめぐらして反 られました。
即墨 の大夫 がこれを聞き、齊王に謁見して申し上げました。
「齊は地は方数千里、帯甲 (兵士か)は数百萬にございます。
それ三晉の大夫たちはみな秦を便 としておりません、そして阿 、甄 (鄄 のまちがいか)の間に在る者は百数にございます。王がこれらを収めて百万人の衆を与え、三晉の故地 を収めさせれば、すぐさま臨晉 の關もそのために入ることができるでしょう。
鄢 ・郢 の大夫 は秦の力になろうと欲していません、そのために南城 (齊の領地、楚に近い場所か)の下におる者は百数にございます、王がこれらを収めて百万の師 を与えられ、楚の故地 を収めさせれば、すぐさま武關 もそのために入ることができるでしょう。
このようであれば、そこで齊の威 を立てることができ、秦国を亡ぼすことができるでしょう、どうしてただその国家を保つのみでございましょう!」
しかし齊王は聴 かれませんでした。
秦王の二十六年(B.C.二二一)
王賁 が燕より南下して齊を攻め、猝 に臨淄 に入りました、民で敢えて格 かう者はありませんでした。
秦は人をして齊王を誘わせ、封ずるに五百里の地をもってすることを約しました。齊王は遂に降 りましたが,秦は王を共 (都市の名)に遷 し、王を松 ・柏 の間に置き、餓えで死なせました。
齊人は王・建 の早くに諸侯と合従 しなかったこと、奸人 ・賓客 に聴 いてそしてその国を亡 ぼしたことを怨 みました。
そこでこのことを歌ってもうしました。
「松よ、柏よ、建 を共 の街に住まわせた者は客 であったことよ!」
王・建 の客 を用いることの詳 らかなならざることをにくんだのです。
ここに齊は亡びました。
司馬光 の史評を見てみましょう。
「臣・光 は申し上げます。合従 ・連衡 の説は反複 (変化)すること百端 ありと雖 も、そうではあるものの合従 の大要は、六国の利であったのです。
昔、先王 は、萬国 を建 て、諸侯に親しみ、諸侯をして朝聘 させてそして互いに交じわらせ、饗宴 させてそして互いに楽しみ、會盟 させてそして互いに結びました。他があったのではございません、諸侯を心を同じくさせ、力をあわせて、そして家・国を保たせたのです。
さきに六国をよく信義で互いに親しませれば、そこで秦が強暴であったとしても、どうしてこれらの諸侯を得て亡ぼすことができたでしょうや!
それ三晉は、齊、楚の藩蔽 (まがき)でございました。齊、楚とは、三晉の根柢 (基盤)にございました。形勢は互いにたすけ、表裏は互いに依りあう。そのために秦は三晉に齊、楚を攻めさせ、自らその根柢 を絶たせ、齊、楚に三晉を攻めさせ、自らその藩蔽 を撤させたのです。どうしてその藩蔽 を撤してそして盜に媚びたのでしょうか。
いうではありませんか、「盜(盗人)はまさに我 (自分)を愛して攻めぬはずだ」と、どうして間違っていないでしょうか!」
これは後世の、全てがわかったうえでの発言ですが、重んじるべきかもしれません。
さて秦王は初めて天下を併合し、自らを德は三皇 を兼ね、功は五帝 を過ぎるとおもい、そこで号を更 えて「皇帝」といい、命を「制 」とし、令を「詔 」とし、自らを称して「朕 」といいました。莊襄王 を追尊 して太上皇 としました。
制 して申しました。
「死して行いで謚 をつくる、すなわちこれは子が父を議 するものであり、臣が君を議 するものである。謂 われなきこと甚(花は)だしい。今より以来、謚 の法を除 く。朕を始皇帝とし、後世は計数 を以てし、二世、三世として萬世 に至らしめ、これを無窮 に伝える」と。
ここに秦の誓いはなったのです。
私もここで筆を置きます。
「王が立たれたわけは、
王はおっしゃいました。
「
「
齊王は
「齊は地は方数千里、
それ三晉の大夫たちはみな秦を
このようであれば、そこで齊の
しかし齊王は
秦王の二十六年(B.C.二二一)
秦は人をして齊王を誘わせ、封ずるに五百里の地をもってすることを約しました。齊王は遂に
齊人は王・
そこでこのことを歌ってもうしました。
「松よ、柏よ、
王・
ここに齊は亡びました。
「臣・
昔、
さきに六国をよく信義で互いに親しませれば、そこで秦が強暴であったとしても、どうしてこれらの諸侯を得て亡ぼすことができたでしょうや!
それ三晉は、齊、楚の
いうではありませんか、「盜(盗人)はまさに
これは後世の、全てがわかったうえでの発言ですが、重んじるべきかもしれません。
さて秦王は初めて天下を併合し、自らを德は
「死して行いで
ここに秦の誓いはなったのです。
私もここで筆を置きます。