左師の觸龍、太后に説く
文字数 2,251文字
秦の皇太子である悼太子が、人質となっていた魏で亡くなったので、秦王は息子の安國君を太子としました。おそらく安國君の子が異人で、始皇帝の父であったと思います。
ここから人質の話が、細かな話をはさみつつ、二つ続きます。
秦は趙を伐ち、三城を取りました。趙王は新たに立ったところで太后が権限を握っていましたが、救いを齊に求めました。
齊の人は申しました。「必ず長安君を人質とせよ」と。
長安というと、漢の長安が思い浮かびますが、趙にもまた長安があったといいます。今、その地を特定するのは難しいようですが。
ちなみに、長安君というのは、惠文王の少子 だとされます。長安君は長安という地で善い待遇を受け、そのため名前が「長安君」とされたようです。
太后は長安君を人質とすることを許可しません。齊の軍隊は出動せず、大臣は強く諫めました。太后ははっきりと左右の群臣に伝えて申しました。
「また長安君を人質とせよと申すものは、老婦 が必ずその面 に唾 してやる!」と。
左師の觸龍 が太后に謁見を願いました。太后は意気を盛んにして觸龍の入るのを胥(待)ちました。
左師公・觸龍はゆっくりと趨 って(朝廷内では小走りで進むのが礼であったように覚えています、それを「趨」と呼ぶと思います)、坐りました。そして自分から謝って申しました。
「老臣は足を病んでおり、久しく見えることができませず、ひそかに自らを許して(恕、おもんばかる)おりました。そのようでありますので、太后のお体のお苦しいところがございませんか心配いたしております。そこで太后への謁見を願望いたしました。」
太后は申されました。
「老婦 も輦 を恃み行動するようになっております。」
觸龍は申しました。
「食は衰えたりはされておりませんか?」
太后はおっしゃいました。
「粥を恃むのみです。(おかゆだけが食べれます)」
太后の和まなかった様子がようやく解 けました。
左師公は申しました。
「老臣 の賤息 の舒祺 でございますが、最も少 く、不肖でございます。しかも臣は衰え老いており、ひそかに舒祺を憐み愛しております。願わくば、黒衣の欠員を補わせることができ、そして王宮を衛 らせてください。死をおそれずにもうしあげます!」
春秋の時に宋の国の官職に左師、右師という官職があり、上卿とされた、そう注にはあります。
趙は觸龍を左師としていましたが、「冗散の官」にしていた。老臣を労っていた。そう注は見ています。
冗散の官とは、どのような経緯からそのような呼称がついたか、今、典拠を取りませんが、ここではつまり退職後の年金的な地位であったととらえてもいいのではないのでしょうか。実際の決定権を持っていないが、禄 は与えられるような地位のようなものだったと思います。
また、黒衣とは衛士の服とのことです。ここでは王宮の近侍の衛兵となることを求めたわけです。
太后は申されました。
「諾 。年は幾何 であるのだ。」
左師公はこたえて申しました。
「十五歲でございます。少 いともうしましても、ゆくゆく死んで溝 や壑 を填 ることがないように、息子を託させていただきたく願いました。」
太后は申されました。
「丈夫もまた少子を愛するか?」
こたえて申しました。
「婦人より甚だしゅうございます。」
太后は笑っておっしゃられました。
「婦人の異 れることはなはだし。(婦人が丈夫より愛する方が深いですよ)」
左師公はこたえて申しました。
「老臣 はおもいますに、媼 (おばばさま?太后への敬称?親しみがこもっているか)の燕の后 を愛されることは長安君よりも賢 っております。」
趙の太后の女 は燕に嫁いでおりました。そのことを述べたのです。
太后は驚かれたのでしょう、おっしゃられました。
「君 は過 っています(間違っています)!長安君の甚だしいのにおよびません。」
左師公は申しました。
「父母がその子を愛せば、そのために計ることは深遠でございます。
媼 の燕后を送られるや、その踵 (くびす?)を持って泣かれ、その遠きを想われ、またそのことを哀れまれました。すでに行かれると、想われないことはなく、祭祀をすればその人のことを願って申されました。『必ず反 らしめることなかれ!』と。どうしてそのために計ることが長久でございませんでしょうか?子孫があい継いで王となられるためではございませんでしたでしょうか?」
太后はおっしゃられました。
「然り 。」
左師公は申しました。
「今から三世より以前で(三代遡って)、趙王の子孫で候となるに至る者があり、その地位を継いで健在なものはございますでしょうか?」
太后はおっしゃられました。
「無有 。」
左師公は申しました。
「このようなことでは、その近きは禍 が身に及び、遠きはその子孫に及ぶのです。
どうして人主(君主)の子が侯となると善くないのでございましょう?
位は尊いのに功は無く、俸禄は厚いのに苦労を知りません、そうであるのに宗廟の重器を担うことは多いのでございます。(多くが侯となることを指す)。
今、媼は長安君の位を尊ばれるのに、そうであるのに長安君を膏腴 の豊かな地に封じられ、多く重器(位か?)を与えられ、そして今まで功が国にあらしめないのに到らされました。一旦山陵が崩ずれば(太后が崩御することを指す)、長安君は何で自らを趙に託されますか?」
太后はおっしゃられました。
「諾 、君 の恣 に長安君を使いさせなさい!」
ここに長安君は車百乗を整えて齊に人質となりました。
齊の軍はそこで出動し、秦の軍は退いたのです。
ここから人質の話が、細かな話をはさみつつ、二つ続きます。
秦は趙を伐ち、三城を取りました。趙王は新たに立ったところで太后が権限を握っていましたが、救いを齊に求めました。
齊の人は申しました。「必ず長安君を人質とせよ」と。
長安というと、漢の長安が思い浮かびますが、趙にもまた長安があったといいます。今、その地を特定するのは難しいようですが。
ちなみに、長安君というのは、惠文王の
太后は長安君を人質とすることを許可しません。齊の軍隊は出動せず、大臣は強く諫めました。太后ははっきりと左右の群臣に伝えて申しました。
「また長安君を人質とせよと申すものは、
左師の
左師公・觸龍はゆっくりと
「老臣は足を病んでおり、久しく見えることができませず、ひそかに自らを許して(恕、おもんばかる)おりました。そのようでありますので、太后のお体のお苦しいところがございませんか心配いたしております。そこで太后への謁見を願望いたしました。」
太后は申されました。
「
觸龍は申しました。
「食は衰えたりはされておりませんか?」
太后はおっしゃいました。
「粥を恃むのみです。(おかゆだけが食べれます)」
太后の和まなかった様子がようやく
左師公は申しました。
「
春秋の時に宋の国の官職に左師、右師という官職があり、上卿とされた、そう注にはあります。
趙は觸龍を左師としていましたが、「冗散の官」にしていた。老臣を労っていた。そう注は見ています。
冗散の官とは、どのような経緯からそのような呼称がついたか、今、典拠を取りませんが、ここではつまり退職後の年金的な地位であったととらえてもいいのではないのでしょうか。実際の決定権を持っていないが、
また、黒衣とは衛士の服とのことです。ここでは王宮の近侍の衛兵となることを求めたわけです。
太后は申されました。
「
左師公はこたえて申しました。
「十五歲でございます。
太后は申されました。
「丈夫もまた少子を愛するか?」
こたえて申しました。
「婦人より甚だしゅうございます。」
太后は笑っておっしゃられました。
「婦人の
左師公はこたえて申しました。
「
趙の太后の
太后は驚かれたのでしょう、おっしゃられました。
「
左師公は申しました。
「父母がその子を愛せば、そのために計ることは深遠でございます。
太后はおっしゃられました。
「
左師公は申しました。
「今から三世より以前で(三代遡って)、趙王の子孫で候となるに至る者があり、その地位を継いで健在なものはございますでしょうか?」
太后はおっしゃられました。
「
左師公は申しました。
「このようなことでは、その近きは
どうして人主(君主)の子が侯となると善くないのでございましょう?
位は尊いのに功は無く、俸禄は厚いのに苦労を知りません、そうであるのに宗廟の重器を担うことは多いのでございます。(多くが侯となることを指す)。
今、媼は長安君の位を尊ばれるのに、そうであるのに長安君を
太后はおっしゃられました。
「
ここに長安君は車百乗を整えて齊に人質となりました。
齊の軍はそこで出動し、秦の軍は退いたのです。