燕の国の乱れ

文字数 2,203文字

 さて、蘇秦(そしん)が既に死に、蘇秦の弟の蘇代(そだい)蘇厲(それい)もまた遊説(ゆうぜい)をもって諸侯に(あらわ)れました。燕の相、子之(しし)は蘇代と婚姻関係を結んでいました。子之は燕の権柄(けんぺい)(実権)を得ようとのぞんでいました。

 蘇代は齊に使いして還りましたが、燕王の(かい)が問うておっしゃいました。

「齊王はそれ霸者の器か?」

 蘇代は(こた)えて申しました。

「不能(無理でございましょう)」

 王はおっしゃいました。

何故(どうしてじゃ)?」

 蘇代は(こた)えて申しました。

「その臣を信じておりません」

 これから燕王は子之に国政を専任するようになられました。

 鹿毛壽(ろくもうじゅ)が燕王に言って申し上げました。

「人が(ぎょう)を賢者と謂うたのは、堯がよく天下を譲ったためでございます。今、王が国を子之にお譲りなされば、これは王と堯と名は同じにございます。」

 燕王はそこで国のことを子之に委嘱(いしょく)しました。子之は大いに重んじられました。

 或るものが申しました。

()は自分の臣下の(えき)(すす)めて自分の子の(けい)の臣を(えき)の吏としました。

 禹は老いるに及びて我が子の啓を天下を任じるに足らずとし、天下を益に伝えようとしました。啓は交じわる仲間(あらかじめ益の部下としておいた啓の部下)と益を攻め、天下を奪いました。天下は禹の天下を益に伝えることを名目として(啓の腹心の部下を益の部下としておいて)結局、啓に自ら天下を取らせたのだ、と申しました。

 今、王は国を子之に委嘱するといって吏は太子の臣のままとされています。これは名は子之に委嘱して実際は太子に政事を用いさせているのでございます。

 もし禹のしたことを実行しなければ、いずれ子之に太子は攻められるでしょう。」

 王はそこで印綬を収め、三百石の吏より以上を子之のもとに参上させました。

 2点、説明を加えさせていただきます。補足しておきます。

 まず堯と、禹の禅譲などについて。

 これは、燕王の噲(暗愚であったためか、名で呼ばれています)が、ここで群臣に古代の聖帝である堯である、とか、中国全土の水利を修め、同じく聖王とされた禹に例えられつつ、実権を子之に移動されてしまった話です。

 胡三省の注の引く、『孟子』には「禹は益を天に(すす)めたが、禹が崩じると、天下の人は益に()かず啟(啓)に之き、申すには、「吾が君の子である。」といった」とあります。

 堯から舜へ、舜から禹へなされたような禅譲ではなく、禹の子・啓から、子々孫々に王位を譲る継承方法の始まり、夏王朝が開かれたとされるのですが、そもそも禹は禅譲によって益という人物に帝位を譲る予定だったのが、わが子の啓に群臣がなつき、王として押し立てられたことになっています。索隱という注によると、禹が啟・個人を臣として益の吏とした、という文はあるようです。しかし、啓は益を攻めていませんし、啓の部下を益の部下にしたような話は出ていません。

 胡三省によると、『師春紀』という書物には、伊尹(いいん)(いん)の名宰相として有名)が太甲(たいこう)不逞(ふてい)の行動があったとして一時伊尹によって修行に出された殷の名王)を放逐(ほうちく)した時、(ひそ)かに太甲は(とう)より出で、伊尹を殺した、という稗説?ですか、があるが、この燕で説かれたことと内容がすこぶる似ており、古書や雜記には、もともとこういういいかげんな?記述が多い、と、胡三省はしています。

 つまり鹿毛壽はいい加減なことをいって、燕王をだましてしまったわけです。ここでは燕王は印綬をすべて子之に渡してしまっています。

 印綬についても触れておきましょう。

『後漢書』輿服(よふく)志によると、三王(夏、殷、周?)の俗が化して(もよう)()るようになり、(ここいまいち意味取れていません)、そのような文化の発展に伴って詐偽(いつわり)が徐々に生じ、そこで始めて印綬ができ、そして奸(よこしま?)が(きざ)すのをしらべた、とされます。

『周禮』の掌節(しょうせつ)にという部署に璽節(じせつ)という官名があり、鄭氏(鄭玄(じょうげん)?)の注に以下の文があります。

「(璽綬(じじゅ)とは)今の印章(いんしょう)である。(じゅ)は,組綬(くみひも)である。古者(ふるく)佩玉(はいぎょく)(ひも)で貫いた。

 漢は秦の制を()け、乘輿(こしにのり)・璽綬(佩玉を紐でつける)した(輿に乗り、璽綬をみにつけた?)。諸王以下、印は金、銀、銅で差をつけ、(ひも)は赤、紫、青、黑、黃で差をつけた。

 印とは、信(文書?信用(まこと)?)である。(もよう)を刻み信(文書)と合す。綬とは、(うける)である。転じて互いに授けて受けるのである。

 三百石の吏は銅印である、黑綬、或いは黃綬である。『礼記』?王制に諸侯の大国の卿は、食祿を田で計り、三十二の大夫(下大夫か?)の収入と同じとする(ここ意味正確か疑義あり)。戦国の卿は、食祿は萬鐘(単位である)とし、これらの区別を(はか)らないことは甚しかった。

 漢制は、三公は秩萬石,斗食の佐吏にいたるまで、凡そ十六等である。三百石の吏は、第十等で、俸給は月四十斛である。」

 としている。鄭玄のような大学者の非常に精密な注を原典に当たらずに書くという無謀をしているので、誤訳・迷訳・意味の取れていないことは、許していただければ。原文に当たっていただければありがたいと思います。

 ともかくこのような信用のもととなる印綬を部下に丸投げしてしまったわけです。

 このようなことがあって、子之は南面して王事を行うようになりました。そして噲が老い、政をみなくなると、(そむ)いて臣としました。国事はみな子之に決するようになりました。ここに、燕が乱れることになったのです。

 慎靚王の六年(B.C.三一五)

 王が崩ぜられ、子の赧王(たんおう)延が立たれました。
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