土地から時代を振り返る(上)
文字数 1,872文字
さて、次に当時の土地の状況を示しておきます。考証には胡注が使えればいいのですが、力不足で『中国歴史地図集』を使いました。
どのように各国が土地を伸ばしていったか。だいたいが秦 がどのように他国の領土を攻略していったかで描かれています。
これは焚書で、秦の歴史書以外が焼かれてしまったからとも取れますが、詳細は不明です。ともかく、秦が毎年のように各国と争いを起こしているのに、他国のことは出てきていません。例外的に記されているのが、趙 の中山 攻略と、桀宋 の事績、燕 の楽毅 の齊 への侵攻です。
八年、趙の武靈王 は趙の東北にある中山 の地を攻めにかかります。中山の房子 を攻め、代 に至り、北は無窮 に至る、西は黄河に至るとありますが、房子以外は漠然 としていていまいちよくわかりません。
ただ、代、黄河の方向に領土を広げた、となると、趙の首都・邯鄲 に対し、北や西北の方向に侵攻したようです。趙の中心部と西北には二列に縦にどうやら山脈がつながっており、中山はどうやらその趙の北方の地域を抑えていたように感じます。その防衛網を最初の戦いで突破し、黄河流域、燕近くの北方まで一気に領土を広げてしまったらしい。
房子というのは趙のすぐそばにある都市ですが、そのほかは川や地域の地名です。この当時は国とは都市の集合体だったのかもしれません。都市を少し離れたところは、簡単に行き来できた、従って、騎馬を導入した趙の軍は、一気に行動範囲を大きくした、そう考えられるのかもしれません。
続く九年、趙王は中山の房子の北の都市、寧葭 に至り、西は胡地へとさらに侵入し、榆中 に至る地を得ました。榆中というのは黄河を越えた秦の北方の砂漠地帯のことで、砂漠を挿 んで、秦の北方に領土を広げたことになります。
続く十年、趙王は中山の北方の丹丘 、爽陽 、鴻 の塞 を西北から大きく迂回 して取り、寧葭の北の都市の密集地帯に手を付け、鄗 、石邑 、封龍 、東垣 を取りました。中山は四邑を趙に献じます。この時点で趙に中山は腹中まで攻め込まれる状況になったようです。
しかし、趙はその後中山に攻め込めていません。もしくは記録が残っていないのかもしれません。
次に出てくるのは九年後の十九年、趙の主父 が新地 、代を得る、とあります。そして続く二十年、趙の主父・齊、燕と中山を滅すとあります。ここに燕の南、齊の西、趙の北にあった都市群、中山は各国に組み込まれることになります。
趙はかなり広大な領土を抱えることになり、その騎馬の機動力で強国となったようです。
桀宋 の事績については、淮水 の北にあった宋が、隣国の滕 を滅ぼし、同じく隣国の薛 を伐 ち、東に齊を破って五城を取り、南に楚を破り地三百里を取り、西に魏軍を破るとあります。都市名は出ていませんが、そこそこ土地を獲得したようです。
しかし維持できなかった。
東の齊、南の楚、西の魏とこれだけの大国に囲まれていては難しかったのでしょう、二十九年に齊の湣王 によって亡びることとなりました。
楽毅 については、三十一年に、燕王が樂毅を上将軍 とし、他国と協力して齊を伐ちました。齊の湣王は国中のありったけの兵を集め、濟西 の地、つまり黄河と濟水に挟まれた地域、具体的には魏・趙・燕の三国との国境地帯に防戦しましたが、三国を相手ということでしょうか、齊軍は大敗しました。魏軍は齊の南の地域・宋の地を取り、趙軍は河間 ・おそらく黄河の齊の西部の地域、二つに割れた黄河の間の地域を取りました。楽毅は自ら軍を率い長躯して追撃しました。六か月の間に、齊の山岳地帯にある七十余城を下し、皆を郡県としました。
これ以後、いくつか都市が出てきたかもしれませんが、私はそれをメモしきれていません。
かろうじて、三十六年、田單 が即墨 により、齊の版図 を楽毅から取り返す、ということを抑えています。
即墨という土地は半島のど真ん中、まだ奥地には莱 の夷狄 がいるというような奥まった地域で、まさに齊は絶対絶命の立場にまでたたされていたようです。そこからの巻き返しはみごとだったのですが。現在も即墨という都市があるようですが、『地図集』は、そこよりもやや北の地域を、当時の即墨としているようです。
さて、ここまで、秦以外の国々の動き、見ていただけたでしょうか。
三十九年に、楚が西に江南の十五邑を取る。つまり、長江の南の地域に領土を広げた記事はありますがこの時代では、その他に、記録は残っていないようです。
次話では、いよいよ秦がどのように国土を伸ばしていったか、丁寧すぎるかもしれませんが、また調べてみましょう。
どのように各国が土地を伸ばしていったか。だいたいが
これは焚書で、秦の歴史書以外が焼かれてしまったからとも取れますが、詳細は不明です。ともかく、秦が毎年のように各国と争いを起こしているのに、他国のことは出てきていません。例外的に記されているのが、
八年、趙の
ただ、代、黄河の方向に領土を広げた、となると、趙の首都・
房子というのは趙のすぐそばにある都市ですが、そのほかは川や地域の地名です。この当時は国とは都市の集合体だったのかもしれません。都市を少し離れたところは、簡単に行き来できた、従って、騎馬を導入した趙の軍は、一気に行動範囲を大きくした、そう考えられるのかもしれません。
続く九年、趙王は中山の房子の北の都市、
続く十年、趙王は中山の北方の
しかし、趙はその後中山に攻め込めていません。もしくは記録が残っていないのかもしれません。
次に出てくるのは九年後の十九年、趙の
趙はかなり広大な領土を抱えることになり、その騎馬の機動力で強国となったようです。
しかし維持できなかった。
東の齊、南の楚、西の魏とこれだけの大国に囲まれていては難しかったのでしょう、二十九年に齊の
これ以後、いくつか都市が出てきたかもしれませんが、私はそれをメモしきれていません。
かろうじて、三十六年、
即墨という土地は半島のど真ん中、まだ奥地には
さて、ここまで、秦以外の国々の動き、見ていただけたでしょうか。
三十九年に、楚が西に江南の十五邑を取る。つまり、長江の南の地域に領土を広げた記事はありますがこの時代では、その他に、記録は残っていないようです。
次話では、いよいよ秦がどのように国土を伸ばしていったか、丁寧すぎるかもしれませんが、また調べてみましょう。