長平の戦い (周・赧王 五十三年)
文字数 1,905文字
ここから長平の戦いを軸とし、どのように諸国の意図や政策がまじりあったかを見ていきます。歴史上、長平の戦いというのは、長平という土地で起こった、秦と趙との激突を指しますが、私はその発端からその引き起こした最後までを描きたいと思います。その旨ご了承いただければと思います。
周の赧王 の五十三年(B.C.二六二)
楚の人が州という土地(州陵ではないかという)を秦に納め、そして和平しました。
先にも述べましたが、武安君が韓を伐ち、野王を抜きました。
これまで、淡々と秦の事績を述べて来た『資治通鑑』の筆致がここから変わります。この野王攻略は大きな戦略的な意図があったのです。
この野王という都市を攻略したことで、上黨という地域への路が途絶されました。秦が宜陽という土地に植民地を作り、そこから洛陽近辺を攻略していたことを述べましたが、ここに大きく回り込んで、韓という国を真っ二つに分けてしまってのだと思います。
上黨とはのちの上黨郡という広大な土地で、野王から太行山の西北の地域であったといわれます。
上黨の守将・馮亭 はその民と謀っていいました。
「韓の首都・鄭への道はすでに絶たれた。秦の兵は日々進んでくる。韓は秦の進撃に応じることはできない。上黨を趙に帰属させるよりほかない。趙がわれわれを受けいれてくれれば、秦は必ず趙を攻めよう。趙が秦兵の被害を受ければ、必ず韓と親しくしようとするだろう。韓と趙が力を一つにすれば、そうすれば秦に当たることができるかもしれない」
そこで使者を派遣して趙に告げて申しました。
「韓は上黨を守ることができません、秦に上黨が入るとすれば、上黨の吏民はみな趙であることを安 じて、秦となることを願わないでしょう。上黨には城市がある邑が十七ございます。(城市がある邑とは地域の中心都市で、かなりの大邑であると注に補足してあります。それ以外にも小さな邑がたくさんあったのでしょう)願わくば再拜して上黨を大王に献じたいと思います!」
趙王はそこでこのことを平陽君・豹に告げました。長安君の所で見たように、この当時、趙は王が代わっています。惠文王は崩じたところで、太后が専政を敷いていました。
平陽君はおこたえして申しました。
「聖人は故 のない利益を禍 と思うこと深い(甚だし)と申します。」
王はおっしゃられたと記録されています。
「人が吾 の徳を楽 がうのに、何謂 か故 が無いのだ?」
平陽君はおこたえして申しました。
「秦は韓の地を蠶食 し、真ん中を絶ち、互いに通じることができなくしました。もとより秦は自然と思うでしょう、坐して上黨の地を受領しよう、と。韓の国(上黨)が秦に入らない理由は、その禍を趙に転嫁しようと望んでいるのです。
秦がその苦労に服して趙がその利益を受ける。強大な国といえども弱小な国から土地を得るのは難しい、弱小の国など固より土地を強大な国から得ることができるでしょうか!どうして故 が無いのではない、と申せますでしょうか?受けないにこしたことはありません」
王は同じことを平原君に告げました。平原君はこれを受けることを願いました。王はそこで平原君を派遣して往きて地を受けさせました。
ここには平「陽」君と、平「原」君が出てきています。食客で有名なのは、平原君、後者のほうです。
平陽君が正しく、平原君が誤っていたのでしょうか?
趙奢が廉頗、楽乗の意見と違ったために秦との戦いに派遣されたように、藺相如の事績のように、勇気は趙の人の特質かもしれません。趙は西北の国、西北の異民族(胡)と接し、胡服し、勇武の国でした。これがいい面に働くこともあれば、悪い方に働くこともあったのかもしれません。
胡三省は注で、秦には天下を併呑する心があったのだから、もし趙が上黨を受けないで秦が得たとしても、またきっと上黨を拠点にして秦は趙を攻めたであろう、だから趙の禍とは上黨を受けたことではなくて、趙括を用いたことにあったのだ、とはいっています。ここは判断が難しいところだと思います。
さてその太守・馮亭は萬戶の都市、三つで封じられ、華陽君となりました。その縣令は千戶の都市、三つで封じられ、侯になりました。吏民はみな爵を増すこと三級でした。いずれも、君になったり、侯になったり、昇級したわけですから、破格の扱いだったといえるでしょう。
しかし馮亭は垂涕して使者と謁見せずに申しました。
「吾れ主の地を売りて之を食 むに忍びざるなり!」と。
馮亭がした決断は、結果として中原に嵐を呼びます。その行為の歴史的価値の評価は、韓にとって良かったのか、どうすればよかったのか、判断がこれも難しいところだと思います。
周の
楚の人が州という土地(州陵ではないかという)を秦に納め、そして和平しました。
先にも述べましたが、武安君が韓を伐ち、野王を抜きました。
これまで、淡々と秦の事績を述べて来た『資治通鑑』の筆致がここから変わります。この野王攻略は大きな戦略的な意図があったのです。
この野王という都市を攻略したことで、上黨という地域への路が途絶されました。秦が宜陽という土地に植民地を作り、そこから洛陽近辺を攻略していたことを述べましたが、ここに大きく回り込んで、韓という国を真っ二つに分けてしまってのだと思います。
上黨とはのちの上黨郡という広大な土地で、野王から太行山の西北の地域であったといわれます。
上黨の守将・
「韓の首都・鄭への道はすでに絶たれた。秦の兵は日々進んでくる。韓は秦の進撃に応じることはできない。上黨を趙に帰属させるよりほかない。趙がわれわれを受けいれてくれれば、秦は必ず趙を攻めよう。趙が秦兵の被害を受ければ、必ず韓と親しくしようとするだろう。韓と趙が力を一つにすれば、そうすれば秦に当たることができるかもしれない」
そこで使者を派遣して趙に告げて申しました。
「韓は上黨を守ることができません、秦に上黨が入るとすれば、上黨の吏民はみな趙であることを
趙王はそこでこのことを平陽君・豹に告げました。長安君の所で見たように、この当時、趙は王が代わっています。惠文王は崩じたところで、太后が専政を敷いていました。
平陽君はおこたえして申しました。
「聖人は
王はおっしゃられたと記録されています。
「人が
平陽君はおこたえして申しました。
「秦は韓の地を
秦がその苦労に服して趙がその利益を受ける。強大な国といえども弱小な国から土地を得るのは難しい、弱小の国など固より土地を強大な国から得ることができるでしょうか!どうして
王は同じことを平原君に告げました。平原君はこれを受けることを願いました。王はそこで平原君を派遣して往きて地を受けさせました。
ここには平「陽」君と、平「原」君が出てきています。食客で有名なのは、平原君、後者のほうです。
平陽君が正しく、平原君が誤っていたのでしょうか?
趙奢が廉頗、楽乗の意見と違ったために秦との戦いに派遣されたように、藺相如の事績のように、勇気は趙の人の特質かもしれません。趙は西北の国、西北の異民族(胡)と接し、胡服し、勇武の国でした。これがいい面に働くこともあれば、悪い方に働くこともあったのかもしれません。
胡三省は注で、秦には天下を併呑する心があったのだから、もし趙が上黨を受けないで秦が得たとしても、またきっと上黨を拠点にして秦は趙を攻めたであろう、だから趙の禍とは上黨を受けたことではなくて、趙括を用いたことにあったのだ、とはいっています。ここは判断が難しいところだと思います。
さてその太守・馮亭は萬戶の都市、三つで封じられ、華陽君となりました。その縣令は千戶の都市、三つで封じられ、侯になりました。吏民はみな爵を増すこと三級でした。いずれも、君になったり、侯になったり、昇級したわけですから、破格の扱いだったといえるでしょう。
しかし馮亭は垂涕して使者と謁見せずに申しました。
「吾れ主の地を売りて之を
馮亭がした決断は、結果として中原に嵐を呼びます。その行為の歴史的価値の評価は、韓にとって良かったのか、どうすればよかったのか、判断がこれも難しいところだと思います。