昭襄王の時代、終わる
文字数 1,915文字
ここからの秦の歴史は実にシンプルで、あっさりしています。ですが、みてみましょう。
燕の孝王 が薨 じ,子の喜 が立ちました。秦の昭襄王 の五十二年のことです。
周の民は東へ亡 げました。秦の民とはなろうとしなかったのです。秦の人はその宝器 を取りました。西周公を憚 の聚(聚落か)へ遷しました。胡注は、この人が西周の文公で、武公の子になるとします。赧王 の時より、東西に周は分治しており、赧王は虛器 (いつわりの宝器か)を擁するのみでした。だとすれば、秦の手に入れた宝器も、真のものではなかったのかもしれません。
楚王が魯 を莒 に遷 してその地を取りました。魯はここに至って亡びました。
五十三年(B.C.二五四)
摎 というものが魏を伐ち、吳城 を取りました。韓王が秦に入朝しました。魏は国を挙げて秦の令を聴きました。
ここに西周、韓、魏がほぼ秦の配下に入っています。
五十四年(B.C.二五三)
王は郊 に上帝 に雍 に見 えました。
ここ意味とりづらいかもしれないですね。
注によると、扶風 という地域におけるのちの雍 縣において、秦の惠公が都したところでしたので五畤 という祭礼の施設があったため、その(五畤の)あったその郊外において上帝という神を祭って、天子の礼を行おうとした、とあります。
のちの封禅 (天を祀る祭礼の一つ)の祖型でしょうか、学説があるかもしれませんが、わたしには扱いかねます。ただ秦の力の勃興は感じます。
楚は巨陽 に遷りました。
胡注によると、赧王 の三十七年に,楚は郢 の街より東北方向の陳 の街に徙 っておりました(街というか、ある程度、首都たりうる都市です)。今、陳より巨陽に徙ったわけです。ただ秦の始皇六年、春申君 が朱英 の献言で、陳より壽春 という街に徙っているとのことです。つまりはこの時は「巨陽に徙る」とあるけれども、まだ陳の地は離れていなかったのかもしれません。ともかく、秦に対する楚のうごめきは感じます。
五十五年(B.C.二五二)
衛の懷君 が魏に朝しましたが、魏の人は執 って殺しました。そしてさらにその弟を立て、これを元君 としました。元君は、魏の婿だったのです(后 が魏出身)。
五十六年(B.C.二五一)
秋、昭襄王 が薨じ、孝文王 が立ちました。唐八子 を尊びて唐太后とし、子楚 を太子としました。趙人は子楚と妻子を奉じて帰らせました。韓王は衰絰 (喪服)して弔祠 に入りました。
燕王の喜 が慄腹 をして趙と約束し歓談させました,五百金で趙王のために酒を行いました。かえりて燕王に言って申しました
「趙の壮年の者はみな長平に死にました。その孤児たちはまだ壮年ではなく、伐つべきであります。」
王は昌國君 ・樂閒 を召してこのことを問いました。樂閒はこたえて申しました。
「趙は四戦の国(四方とも国に囲まれ戦うことの多いことを指すか)であります。その民は戦争を習熟 しております。不可であります。」
王は申されました
「吾 は五で一を伐つのだ。」
樂閒は申しました。
「不可であります。」
王は怒りました。群臣もみな可である(勝てる)とおもいました。そこですぐさま二千乘の戦車を徴発し、慄腹を将として鄗 を攻めました。卿秦 は代 を攻めました。
將渠 が申しました。
「人と関を通じさせ、交りを約して、五百金で人の王に飲ましめ、使者が報じてその国を攻める。不祥 であります。師は必ず功をなさないでありましょう。」
王は聴かれませんでした。自ら偏軍(一軍)をひきいて軍に隨 いました。將渠は王の綬 を引いてとどめましたが、王は足でこれを蹴りました。
將渠は泣いて申しました。
「臣は自らの為めにするのではございません、王の為めにしておるのでございます」
燕の師は宋子 に至りました。趙は廉頗 が将となり、逆 えて燕の軍を擊ちました。慄腹を鄗に敗り、卿秦、樂乘 を代に敗りました。追うこと北に五百余里、遂に燕の都、薊 を囲みました。
燕人は和を請いました。趙の人は申しました。
「必ず將渠をして和におらしめうよ。」と。
燕王は將渠を相 とさせ和におらしめ、趙の軍はそこで解散して去りました。
趙の平原君が卒しました。
ここに長らく続いた、秦の昭襄王の時代が終わりました。書いていても長かったです。五十六年に及ぶ長期政権でした。
この間に、ほぼ秦は全国制覇の足場を固めています。
周はすでになく、韓、魏は入朝し、趙は燕に意地を見せたとはいえ衰えは隠せず、さらには平原君を失っています。楚は陳からさらに遷都しようとしています。燕は趙にあしらわれる程度の力、齊のことはわかりませんが、秦の優勢は明らかになってきました。
さて物語は、いや、歴史はこの先どのように転がるのでしょうか。見ていきたいと思います。
燕の
周の民は東へ
楚王が
五十三年(B.C.二五四)
ここに西周、韓、魏がほぼ秦の配下に入っています。
五十四年(B.C.二五三)
王は
ここ意味とりづらいかもしれないですね。
注によると、
のちの
楚は
胡注によると、
五十五年(B.C.二五二)
衛の
五十六年(B.C.二五一)
秋、
燕王の
「趙の壮年の者はみな長平に死にました。その孤児たちはまだ壮年ではなく、伐つべきであります。」
王は
「趙は四戦の国(四方とも国に囲まれ戦うことの多いことを指すか)であります。その民は戦争を
王は申されました
「
樂閒は申しました。
「不可であります。」
王は怒りました。群臣もみな可である(勝てる)とおもいました。そこですぐさま二千乘の戦車を徴発し、慄腹を将として
「人と関を通じさせ、交りを約して、五百金で人の王に飲ましめ、使者が報じてその国を攻める。
王は聴かれませんでした。自ら偏軍(一軍)をひきいて軍に
將渠は泣いて申しました。
「臣は自らの為めにするのではございません、王の為めにしておるのでございます」
燕の師は
燕人は和を請いました。趙の人は申しました。
「必ず將渠をして和におらしめうよ。」と。
燕王は將渠を
趙の平原君が卒しました。
ここに長らく続いた、秦の昭襄王の時代が終わりました。書いていても長かったです。五十六年に及ぶ長期政権でした。
この間に、ほぼ秦は全国制覇の足場を固めています。
周はすでになく、韓、魏は入朝し、趙は燕に意地を見せたとはいえ衰えは隠せず、さらには平原君を失っています。楚は陳からさらに遷都しようとしています。燕は趙にあしらわれる程度の力、齊のことはわかりませんが、秦の優勢は明らかになってきました。
さて物語は、いや、歴史はこの先どのように転がるのでしょうか。見ていきたいと思います。