蔡澤の智

文字数 2,377文字

 さて、物語は周の時代を終え、秦の時代に入ります。

 ここから、『通鑑』は秦の時代の事績(じせき)を二十八年連ねます。

 注によると、秦とは、隴西(ろうせい)の谷の名で、雍州(ようしゅう)鳥鼠山(ちょうそさん)の東北にあるとあります。

 秦の先祖である非子(ひし)は、周の孝王のために馬を汧水(けんすい、と呼ぶか)、渭水(いすい)の間に養い、(ふう)じられて附庸(ふよう)(大国の属国、周から見れば陪臣(ばいしん)のような形になる)となり、(しん)の谷に拠点を置きました。

 非子の曾孫(ひまご)秦仲(しんちゅう)の代に、周の宣王(せんおう)が命じて大夫としました。

 仲の孫の襄公(じょうこう)の時代に、西戎(せいじゅう)討伐(とうばつ)して周を救い、周の平王(へいおう)が洛陽へと東遷した際には、()(ほう)の土地を(たま)わって、列せられて諸候となったようです。

 春秋時代には秦伯(しんはく)を称しました(伯爵?ちなみに伯と覇は意味が通じることがある)。

 この時代、秦は昭襄王(しょうじょうおう)の時代です。

 昭襄王の名は(しょく)、先代の惠文王(けいぶんおう)庶子(しょし)でしたが抜擢されて王となったのは見たところです。

 西周はすでに亡び、天下には正統な王は無く、『通鑑』はここから秦を正統として年を(つな)いでいます。


 時代は、秦の昭襄王の五十二年(B.C.二五五年)です。

 河東(かとう)の守の王稽(おうけい)が諸侯と通じたことに坐し(罪せられ)、棄市(きし)されました(刑死しました)。

 河東は本、魏の土地で、秦が侵略して取った土地です。その土地は大河(黄河)の東にあり、河東郡をおいていました。魏とも連なる土地であり、重要な交通の要衝(ようしょう)だったと考えられます。

 しかし、だからこそ不穏(ふおん)な行動は罪せられたのでしょう。

 棄市とは人を市に刑することで、死体は埋葬されることは許されないのでしょうか、衆人に与えられ捨てられる、と注にあります。秦の法律では死を市で論じたから棄市というのであって、そこまでのことはしないともあります。

 應侯(おうこう)范睢(はんすい)は日びよろこびませんでした。王稽は范睢を秦王に推薦した人物だったからです。

 范睢が秦の相となったあと、稽も進用されていました。それが罪を得て刑死したわけです。范睢も首元がうすら寒く感じたわけです。

 王も朝に(のぞ)んで(なげ)かれました。

 應侯がわけをきくと、王はおっしゃるではありませんか。

「今、武安君(白起)は死し、鄭安平(ていあんぺい)、王稽等はみなそむいた。內に良将(りょうしょう)はなく、外に敵国は多い、私はそのために(うれ)えているのだ!」

 應侯は(おそ)れて、どのように申せばいいのかわからない様子で(かしこ)まるのみでした。

 燕の説客(せっかく)蔡澤(さいたく)がこのことを聞き、秦へやってきました。先に人を使い應侯に宣言してもうさせました。

「蔡澤は、天下雄弁の士である。彼を王にあわせれば、きっと君(范雎)をくるしめて、君の位を奪うだろう。」

 應侯は怒って、人に蔡澤を招かせました。

 蔡澤は應侯にあうと、礼は(おご)っておる様子を示しました。應侯は不快に思いましたので、そこで蔡澤をせめてもうしました。

(あなた)が宣言するには、秦の相に代わりたいという、その説をお聞きしたい」

 蔡澤は申しました。

(うーむ)(あなた)はなんと会われるのの遅いことか。そもそも四時(四季)の順序によると、成功者もいずれはその地位を去るものです。

 (あなた)は見なかったのですか、秦の商君(しょうくん)衛鞅(えいおう))、楚の吳起(ごき)、越の大夫・(しゅ)を。

 どうして彼らのようなことを望まれるのです」

 應侯は意に反して、とぼけてこう申すことにしました。

「どうしてそのようなことをおっしゃる!

 この三子は、義の至りで、忠を尽くしたものではありませんか。君子は身を殺して名を成し、死んでもうらまないことがあるのです」

 蔡澤はもうしました。

「それ人の功を立てるのにおいて、どうして身を全うすることを期さないものがおりましょうや!

 身と、名とともに全うするものを、上とします。名を(のっと)るべくして身は死するものを、次とします。名を(はずか)しめられて身を全うするものを、下とします。

 考えてください、商君、吳起、大夫・種、みな人臣となって忠を尽くし功を(いた)す点においては、願うべきでしょう。(一方で)閎夭(こうよう)、周公は、忠でありながら聖でございます!(二人は功を成した後、寿命を全うしたと考えられる、少なくとも、周公はそうである)

 あなたが三子となるのを願われるのならば、だれが閎夭、周公となられるのですか?」

 應候は申しました

「その通りでございます(閎夭、周公のように身を全うしたく願っています)」

 蔡澤は申しました。

「そうであるならば、君のご主君は、旧故(旧臣、故臣か、元から古くからの臣)に手厚く、功臣にそむかないでしょうか、孝公、楚王、越王とくらべていかがです?」

「いや、どうかわかりません」

 范睢はとぼけています。白起の末路、王稽の刑死を見ているのですから、当然危ぶんでいるはずでしょう。

 蔡澤は申しました。

「君の功は三子といずれが優っておりますか?」

 范睢は答えます。

不若(しかず)(及びません)。」

 蔡澤は申しました。

「そうであるならば、君が身を退(しりぞ)かないのなら、患難(かんなん)を恐れるべきなのは三子よりも(はなは)だしいでしょう。

 申すではございませんか、『日は中(正午になること)すれば沈む、月満つれば欠ける』と。進退・嬴縮(星の出る、沈むを嬴縮という、とある)は、時によって変化します。時代を読むことこそ聖人の道でございます。

 今、ご主君の(うらみ)はすでにたかまっており、あなたの德はすでに(むく)いられたのです。

 ご主君の御意が至ろうとするのなら、変計(たいさく)がなければと、(あなた)のために危ぶみます!」

 そこで應侯はついに蔡澤をとりたてて上客(じょうかく)とし、よって王に推薦しました。

 王は招いて語り、大いに(よろこ)びました。拜されて客卿(かくけい)となりました。

 應侯はそこで病として罷免(ひめん)されました。

 王は新たに蔡澤の計画を悦んで、ついには相国(しょうこく)としました。蔡澤の、最初に宣言した通りとなったわけです。

 蔡澤は、いや蔡澤も、相国となることわずか数カ月で、官を止め、引退したといわれています。

 二人とも術数、つまり策謀に通じた人物であったと言えるでしょうか。
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