人間とは奥深いもの

文字数 1,281文字

 一言付け加えさせてください。

 秦軍は長平での勝利の勢いを駆り、長躯して趙の首都邯鄲へと進軍しました。趙が中山国を滅ぼしたように、秦がまたまた距離のはなれた宜陽や蜀、楚の領地を切り取っていったように、趙の命運も、趙の領土も、既になき者となりかけていました。

 そこに突然に登場してきたのが、魏の公子・無忌、信陵君です。これ以下の結果は簡略にしか書いてないため先に種を明かしますが、信陵君は趙を救い、秦はその全国制覇を阻まれます。

 信陵君が趙を救うか、救わないかで、大きく歴史がここは変わるところだったのです。

 勝ったからよかったのです。今の我々は信陵君が勝つことを知っており、安心してここを読むことができます。しかし負けていればどうでしょう。8万の兵が長平での戦いの様にまた殲滅され、その矛先が魏へ向かったならば、歴史は、そしてなによりも魏の国や民はどうなったでしょうか?

 それにもかかわらず、魏の人々はそれぞれの役割を、それぞれが果たすべく、果たしていきます。

 その自分の役割を果たそうという想いが、行動が、秦の東進を阻みます。

 公子・無忌は、平原君の依頼を受けた後、侯生に助言を請います。それも一度ではありません、戻って来て二度目の助言を聞きます。もし公子が、一度目で止めていたら、歴史は違っていたのです。

 侯生は公子に助言します。文章が簡潔なのであっさりと助言したようにも見えますが、重い言葉です。何万もの兵や、国の人々を死地に追いやるかもしれません。また将軍の命令や、王の指示に逆らうことになります。しかし恩顧を受けた公子のために、ありったけの知恵を絞って助言を侯生はしたのです。

 それまで、侯生は公子を試していたのかもしれません。自分をどう扱うか、どれだけのことを報いるべきか。単なる市井の人と見るか、賢人としてみるか。ここでも一度は助言を控えて公子の態度を試しています。

 そして公子は正しかったのです。侯生は的確な助言を贈ります。そして朱亥を紹介します。次々と侯生の助言は的中していきます。なぜ市井に埋もれていたこれほどの人物を公子は知ることができたのか。いざというときのために、あれほどの待遇をできたのか。人物を評価し、発掘することは難しい。そして士は士を知るといいますが、二人の交流が歴史を動かしたわけですから、このような互いの友情や、信頼関係の奥深さというものには畏怖せざるをえません。

 なお、『通鑑』には描かれていませんが、侯生は公子が趙に旅立った後、亡くなったといわれています。王命にそむき、公子をそそのかして魏軍十萬の動向を示唆し、将軍である晉鄙を撃殺までさせた、そのこともあったのでしょうか。

 公子に協力した、如姫、朱亥についても、歴史に名は残っていますが、その後どうなったのかは知られていません。公子を助けた瞬間の輝きをのこして、彼らは歴史の暗闇に消えていきました。その末路は、知ることはできません。

 それでも公子を助けたかった。彼らの想いと、公子の持つ人間的魅力が伝わってこないでしょうか。

 つくづく、人間とは奥深いものだと思います。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み