翻弄される楚の国

文字数 1,223文字

 さて(しん)よりの見方から見た、『疑惑(ぎわく)』については見てみましたが、()の言い分もあるでしょう。ちょうどその間の出来事がまとめられた文章を、『史記(しき)屈原(くつげん)列伝(れつでん)に見つけたので引いておきます。

 屈原の出自(しゅつじ)については(はぶ)いて、その箇所(かしょ)のみ抜き出させていただきます。

 屈平(くつへい)(屈原)が退けられたのち、その後に秦は(せい)()とうとしましたが、齊は楚と親しくしていましたので、秦の惠文王(けいぶんおう)はそれを(うれ)えて、張儀(ちょうぎ)(いつわ)って秦を去らせ、(おくりもの)を厚くし人質を(ゆだ)ねて楚に(つか)えさせ、進言させました。

「秦はたいへん齊を憎んでおります、齊と楚は同盟しておりますが、楚が心から()く齊と()つことができれば、秦は(しょう)()の地、六百里を献じようと望むでしょう」

 楚の懷王(かいおう)貪欲(どんよく)で張儀を信じて、遂に齊と絶交し、使者を遣わして秦にゆかせ地を受け取らせようとしました。張儀は(たばか)って申しました。

「儀が懷王様に約六里を与えることは聞きました、ですが六百里を与えるとは聞きませんでした。」と。

 楚の使いは怒って去り、帰って懷王に告げました。懷王はそれを聞いて怒り、大いに軍を(おこ)して秦を()ちました。秦は兵を(はっ)して楚軍を()ち、大いに楚の軍を(たん)(せつ)(やぶ)り、斬首(ざんしゅ)すること八万、楚将・屈匃(くつかい)(とりこ)とし、ついに楚の漢中(かんちゅう)の地を取りました。懷王はそこでことごとく国中の兵を発してその軍で深く侵入して秦を撃ち、藍田(らんでん)に戦いました。()がそのことを聞いて、楚の本国を襲い(とう)に至りました。楚兵は(おそ)れ、楚の軍は秦より帰ることになりました。さらには齊は怒って楚を救わず、楚は各国からの圧力に大いに(くる)しみました。

 明年(つぎのとし)、秦は漢中の地を()いて楚に与えて和を()うてきました。楚王は言いました。

「地を得なくてもいい、どうか張儀を得て心を(なぐさ)めたい」

 張儀はそれを聞いて、そこで言いました。「一人の()が漢中の地に当たるのであれば、(わたし)は楚にゆきたいとおもいます。」そして楚にゆき、また(えん)をたどって(おくりもの)政事(せいじ)(つかさど)る者である重臣の靳尚(きんしょう)に厚く贈り、詭弁(きべん)を懷王の寵姬(ちょうき)である鄭袖(ていしゅう)にふるいました。懷王は最終的に鄭袖の言うことを聴き、また張儀をとき放って去らせました。是時(このとき)、屈平(原)は既に(うと)まれており、さらに重要な位におらず、齊に使(つか)いしていました、帰ってきて反命(はんめい)し、懷王を(いさ)めて言いました。

「どうして張儀を殺されなかったのですか?」

 懷王は後悔し、張儀を追わせましたが追いつきませんでした。

 その後のことです、諸侯が(とも)に楚を()ち、大いに楚を(やぶ)り、その将軍・唐眛(とうばつ)を殺したのは。

 時に秦の昭王は楚と婚姻(こんいん)しており、懷王と会おうとしました。懷王は行こうとしませんでした、屈平は申しました。

「秦は虎や狼のような国でございます、信ずるべきではございません、行かないにこしたことはありません」と。(『史記』楚世家(せいか)?、『通鑑』では昭睢(しょうすい)がこの言を発したことになっている)懷王の稚子(ちし)(末っ子)の子蘭(しらん)が王に行くことを(すす)めました。「どうして秦と(よしみ)を絶ちなさるのですか!」懷王は最終的に行くことになりました。
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