淖齒、湣王の罪を数える(あと荀子の論について)
文字数 1,933文字
齊王は宮を出て亡げて衛に行きました、衛の君は宮を闢けて王をやどらせ、臣を称して王の用具を供えました。齊王は不遜であり、衛人は王を攻撃しました。そこで齊王は衛を去って鄒、魯へ奔りました、だがまだ驕りの顔色がうかがえました。鄒も魯も王をいれず、王は遂に莒へと走りました。莒とは、春秋時代の莒子の国で、齊がその国を滅して併呑した地域であります。齊の湣王はここに齊に再び戻ったことになりました。
楚は淖齒を派遣して兵を率いて齊を救わせます。淖齒はそこで齊の相となりました(外国の家臣が客卿などとして大臣になることがある)。淖齒は燕と齊の土地を分けようとしました。そこで湣王をとらえてその罪を数えて言いました
「千乘と博昌のあいだ、四方・数百里に、血がふって衣をぬらしたものがいる、王はこれをご存知か?」
王は言いました。「知っている」
「嬴と博のあいだに、地がさけて黄泉にまで及んでいるところができたという、王はこれをご存知か?」
王は言いました。「知っている」
「人の、闕(宮廷の門か?)にいて哭している者がおり,その人を探しても得ることができないのに、はなれるとそうすればその声が聞こえるという、王はこれをご存知か?」
王は言いました。「知っている」
そこで淖齒は言いました。
「天が血をふらせて衣をぬらしたのは、天がそれで齊に告げたのである。地がさけて黄泉に及んだのは、地がそれで齊に告げたのである。人の闕にいて哭す者がいたのは、人がそのことで齊に告げたのである。天、地、人がみな告げたのに、だが王は心を誡める(入れ替える)ことを知らなかった、どうして誅を免れようか!」
そこで王を齊の先祖代々の廟(みたまや)に近い鼓里という場所で弑逆しました(誅殺したのです)・・・。
このあとに、荀子の史論が出てきます。一応訳出しておきます。どうも『荀子』の第十一篇、王覇という個所の冒頭のようです。
荀子は非常に才能があった人で、門下生からは韓非子、李斯のような法家の偉大な思想家が排出されています。しかし荀子という人は「性悪」という説を唱えた人で、「荀子は才高し、されど……」という言い方をされることが多いです。孟子が「性善」を称えたのに対して比較されることがあり、評価には注意が必要です。
このような評価を定めたのは朱子という人で、朱子以前の司馬光は当時の感覚で荀子を引いているので、よく荀子が出てくるのだと思います。興味深いところです。
実は荀子には、「性悪」、「法家」という顔とは別に、「詩人」という顔もあり、現在に伝わる『詩経』、いわゆる『毛詩』という古代の詩集は、荀子の学統、二人の毛公という人物から伝えられています。その意味で、荀子は儒学の大恩人なのですが、注意して読む必要がある人物とはいわれます。
私は朱子を学んでいくうちに、そのような教えに触れました。ちなみに朱子は仏教も嫌いです。で、このような差別的な考え方に疑問を感じるようにもなり、『老子』、『荘子』内篇などは読んだのですが、『墨子』、『荀子』などは、またいずれ読もう、と、今本を伏せているところです。
したがって、今、言いたいのは『荀子』のこの訳は不完全なものになるだろう、ということです。
この物語の冒頭の『秦誓』については、宇野哲人先生の『大学章句』、吉川幸次郎先生の訳業や、筑摩版の『書経』なども一応は一読したうえで、なんとか訳出しています。(多くの人に読んでいただけて喜んでいるとともに、少し恥ずかしくも思っています)
一方で、今回の荀子については、『漢文大系』であったり、『新釈漢文大系』のような専門書を読む労をとっていません。『荀子』について、おそらくは専門家の分厚い研究の蓄積があるはずですが、それを読んでいないのです。
各典拠に当たる時間を重視すれば、細部にこだわればこだわるほど、「手持ちの材料で攻めていく」、という方針が崩れ、たくさん書くよりも、精密さが優先されてしまいます。
私は読んでくださっている方の歴史への導入の踏み石になりたい、入り口となって、どうぞどうぞここからお入りください、そう人に呼び掛けてみたいと思っています。中にいる偉い先生や学者のような人間ではありません。だから興味を持った人はここから入って、専門家にたどり着いてください。これは今後も各大家の論を訳出するにあたって、胡三省の注を主に参考とし、専門家の注までは振り返りませんよ、そういう前置きになります。
一度、どこかで説明しておく必要があると思いましたので、ここで述べさせていただきます。
読みや内容についても、多くの間違いを犯しています。ですがそこは、笑ってお許しをいただければ幸いです。では、話を続けます。
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