偉大なる白起(中)ー適材適所をめぐる雑感-
文字数 2,126文字
さて再びです。流れを追ってみましょう。年数は周 の赧王 の即位何年かになります。
「八年(甲寅、B.C.三〇七)
秦 、宜陽 を抜く。
秦の昭襄王 が立つ。」
宜陽というとわかりにくいですが、洛陽 のすぐそばの都市、というと、意味合いが変わってくると思います。ここは都市の密集地帯で、文化の進んだ地域ですが、そこを秦は手に入れたわけです。
「趙 の武靈王 ・中山 の地を取り、房子 、代 に至り、北は無窮 に至る、西は黄河に至る。
九年(乙卯、B.C.三〇六)
秦・武遂を韓に帰す。魏の蒲阪を伐つ
趙王・中山、寧葭に至り、西は胡地に、榆中に至る地を得る。
十年(丙辰、B.C.三〇五)
趙王・中山の丹丘、爽陽、鴻之塞を取り、鄗、石邑、封龍、東垣を取る。中山は四邑を趙に献ず。
十一年(丁巳、B.C.三〇四)
秦・楚に上庸を戻す。
十二年(戊午、B.C.三〇三)
秦は魏の蒲阪、晉陽、封陵を取り、また韓の武遂を取る。
十三年(己未、B.C.三〇二)
秦・魏に蒲阪を戻す。
十四年(庚申、B.C.三〇一)
秦・韓の穰を取る。
蜀を秦の司馬錯が誅す。
秦庶長奐・楚、重丘を取る。
十五年(辛酉、B.C.三〇〇)
秦・楚の襄城を取る。
十六年(壬戌、B.C.二九九)
秦・楚の八城を取る。
十七年(癸亥、B.C.二九八)
秦・武關から楚の十六城を取る。
十九年(乙丑、B.C.二九六)
齊、韓、魏、趙、宋・秦、鹽氏に至る。秦・韓に武遂、魏に封陵を与える。趙の主父・新地、代を得る。
二十年(丙寅、B.C.二九五)
秦尉錯・魏の襄城を取る、趙の主父・齊、燕と中山を滅す。 」
ちょっと長めに見ました。
ここまでは、趙の中山攻めが中心になって描かれています。趙の武靈王・主父が中山という一つの大きな国を征服してしまったのです。趙と中山を比べると、ほぼ同程度の国家を併呑してしまったことになります。特に八、九、十年には、広大な領地を、一気に切り取ってしまっています。
軍事力で、敵に倍する兵力を持っていたのならともかく、同じ程度の国家が国家を滅ぼすことができたのは、新しい騎兵戦の威力があったからでしょうか。ともかく、趙は大きくなり、また波紋を呼ぶことになりました。
秦は黄河の東の地域、魏や韓の土地に圧力をかけつつ、東南の武関から兵を出して、楚の領土をひたひたと削っています。少しずつ、秦の領土は広がっています。
「二十一年(丁卯、B.C.二九四)
秦・魏を解に破る。
二十二年(戊辰、B.C.二九三)
韓の公孫喜、魏人が秦を伐つ。穰侯は左更の白起を秦王に薦め向壽に代わって兵をひきいさせました。魏の軍、韓の軍を伊闕に破り、斬首した数、二十四万級、公孫喜を虜にし、五城を抜きました。秦王は白起を國尉としました。」
ここに白起が登場します。白起をめぐる数字は桁が違います。ここでも、二十四万の兵を屠ったとあります。これらは虚飾か、基礎になった史料に誤りがあるのか、とも疑いたくなりますが、本当の数字だとすれば、この白起という人も、戦略や、戦術で何かの革新を起こした人だったのかもしれません。何かの強さの秘密を持っていた。ただ、それはわかりませんが。以降、白起の驚異的な事績が出てきます。
「二十四年(庚午、B.C.二九一)
秦・韓の宛を抜く。
二十五年(辛未、B.C.二九〇)
魏は河東の地、四百里、韓は武遂の地、二百里を秦に入れる。
二十六年(壬申、B.C.二八九)
秦の大良造・白起、客卿・錯、魏を伐ち、軹に至り、城大小六十一を取りました。」
ここにさりげなく事績が書かれているので、見落としがち、私も本編を書いていた時には流していたのですが、白起が実に六十一の城を攻め落とした、そういう事績が残っています。燕の楽毅が攻め落としたのが齊の七十城と言われますので、ここに同じように魏という国を大きく削ってしまった事績がさりげなく、一文で書かれています。
楽毅の齊攻めは華やかに語られています。それは齊という地域が、当時の先進地域で、その歴史記述も整ったものであった可能性があります。一方で、秦の歴史は、ただ一文が残っているのみで、白起の真価は、ここでは見えなくなっています。
趙の主父が中山を攻め落としてから六年、同じような実績を将軍として採用された名もない人物が、やり遂げたのです。そして面白いように楚の西の辺境を切り取っていく秦軍の戦闘に、誰かがいた。つまり、白起がこの魏の六十一城の攻略の前に、楚との戦いで武功を立てていたとしたら、まさにこの白起という一人の人物の力で、秦の国は勃興したことになります。このような人物を見抜いた、穰侯という人は本当に人を見る目を持っていたのかもしれませんし、これだけ人を扱う力を持っていたならば、適材適所で、他の人物も自在に操っていたのかもしれません。
ちなみに、魏と、韓が、それぞれ土地を献上した、という記事が、この白起の事績の前にありますが、実際は逆であった、つまり白起がそれらの土地を切り取ってしまったから、自分たちがそれらを献上した、というふうに書いた可能性もあります。ただそれは、推測、穿った見方にすぎません。
「八年(甲寅、B.C.三〇七)
秦の
宜陽というとわかりにくいですが、
「
九年(乙卯、B.C.三〇六)
秦・武遂を韓に帰す。魏の蒲阪を伐つ
趙王・中山、寧葭に至り、西は胡地に、榆中に至る地を得る。
十年(丙辰、B.C.三〇五)
趙王・中山の丹丘、爽陽、鴻之塞を取り、鄗、石邑、封龍、東垣を取る。中山は四邑を趙に献ず。
十一年(丁巳、B.C.三〇四)
秦・楚に上庸を戻す。
十二年(戊午、B.C.三〇三)
秦は魏の蒲阪、晉陽、封陵を取り、また韓の武遂を取る。
十三年(己未、B.C.三〇二)
秦・魏に蒲阪を戻す。
十四年(庚申、B.C.三〇一)
秦・韓の穰を取る。
蜀を秦の司馬錯が誅す。
秦庶長奐・楚、重丘を取る。
十五年(辛酉、B.C.三〇〇)
秦・楚の襄城を取る。
十六年(壬戌、B.C.二九九)
秦・楚の八城を取る。
十七年(癸亥、B.C.二九八)
秦・武關から楚の十六城を取る。
十九年(乙丑、B.C.二九六)
齊、韓、魏、趙、宋・秦、鹽氏に至る。秦・韓に武遂、魏に封陵を与える。趙の主父・新地、代を得る。
二十年(丙寅、B.C.二九五)
秦尉錯・魏の襄城を取る、趙の主父・齊、燕と中山を滅す。 」
ちょっと長めに見ました。
ここまでは、趙の中山攻めが中心になって描かれています。趙の武靈王・主父が中山という一つの大きな国を征服してしまったのです。趙と中山を比べると、ほぼ同程度の国家を併呑してしまったことになります。特に八、九、十年には、広大な領地を、一気に切り取ってしまっています。
軍事力で、敵に倍する兵力を持っていたのならともかく、同じ程度の国家が国家を滅ぼすことができたのは、新しい騎兵戦の威力があったからでしょうか。ともかく、趙は大きくなり、また波紋を呼ぶことになりました。
秦は黄河の東の地域、魏や韓の土地に圧力をかけつつ、東南の武関から兵を出して、楚の領土をひたひたと削っています。少しずつ、秦の領土は広がっています。
「二十一年(丁卯、B.C.二九四)
秦・魏を解に破る。
二十二年(戊辰、B.C.二九三)
韓の公孫喜、魏人が秦を伐つ。穰侯は左更の白起を秦王に薦め向壽に代わって兵をひきいさせました。魏の軍、韓の軍を伊闕に破り、斬首した数、二十四万級、公孫喜を虜にし、五城を抜きました。秦王は白起を國尉としました。」
ここに白起が登場します。白起をめぐる数字は桁が違います。ここでも、二十四万の兵を屠ったとあります。これらは虚飾か、基礎になった史料に誤りがあるのか、とも疑いたくなりますが、本当の数字だとすれば、この白起という人も、戦略や、戦術で何かの革新を起こした人だったのかもしれません。何かの強さの秘密を持っていた。ただ、それはわかりませんが。以降、白起の驚異的な事績が出てきます。
「二十四年(庚午、B.C.二九一)
秦・韓の宛を抜く。
二十五年(辛未、B.C.二九〇)
魏は河東の地、四百里、韓は武遂の地、二百里を秦に入れる。
二十六年(壬申、B.C.二八九)
秦の大良造・白起、客卿・錯、魏を伐ち、軹に至り、城大小六十一を取りました。」
ここにさりげなく事績が書かれているので、見落としがち、私も本編を書いていた時には流していたのですが、白起が実に六十一の城を攻め落とした、そういう事績が残っています。燕の楽毅が攻め落としたのが齊の七十城と言われますので、ここに同じように魏という国を大きく削ってしまった事績がさりげなく、一文で書かれています。
楽毅の齊攻めは華やかに語られています。それは齊という地域が、当時の先進地域で、その歴史記述も整ったものであった可能性があります。一方で、秦の歴史は、ただ一文が残っているのみで、白起の真価は、ここでは見えなくなっています。
趙の主父が中山を攻め落としてから六年、同じような実績を将軍として採用された名もない人物が、やり遂げたのです。そして面白いように楚の西の辺境を切り取っていく秦軍の戦闘に、誰かがいた。つまり、白起がこの魏の六十一城の攻略の前に、楚との戦いで武功を立てていたとしたら、まさにこの白起という一人の人物の力で、秦の国は勃興したことになります。このような人物を見抜いた、穰侯という人は本当に人を見る目を持っていたのかもしれませんし、これだけ人を扱う力を持っていたならば、適材適所で、他の人物も自在に操っていたのかもしれません。
ちなみに、魏と、韓が、それぞれ土地を献上した、という記事が、この白起の事績の前にありますが、実際は逆であった、つまり白起がそれらの土地を切り取ってしまったから、自分たちがそれらを献上した、というふうに書いた可能性もあります。ただそれは、推測、穿った見方にすぎません。