孔子の子孫・子順(上)
文字数 1,936文字
秦が最初、趙を伐った時、魏王は大夫に問いました。みな秦が趙を伐つのを、魏の便益としました。孔斌(子順)が申しました。
「どうしてでございますか?」
大夫たちは申しました。
「秦が趙に勝てば、そうすれば吾れわれはよって秦に服せばいい。趙に勝てなければ、そこで秦の敝(弊)を承けて秦を撃てばいい。」
子順は申しました。
「そうではございません。秦は孝公より以来、戦って屈したことがございません。今、また兵をその良将(白起など)に属させておるのに、どうして秦の敝を承けることなどございましょう!」
大夫たちは申しました。
「秦が趙に勝つを縦にする、我れわれに何の損がある?鄰の羞は、国の福である」
子順は申しました。
「秦は、貪暴の国でございます。趙に勝てば、必ずまた他に土地を求めましょう。吾はその時に魏がその軍を受けるのを恐れるのでございます。
先人にお言葉がございます、燕雀(ツバメや雀)が屋に居り、子と母がたがいにむつみあい,呴呴としてともに樂しんでおります。自分たちは安全だと思っておりました。ところが煙突が炎上し、棟宇(家・屋敷)が焚えようとしました。燕雀の顏は変わりません、禍のまさに己に及ぼうとするのを知らないからです。
今、子は趙が破れれば患いがまさに己に及ぼうとするのを悟っておられません、人であるのに燕雀と同じであるべきでしょうか!」
子順と申す方は、孔子の六世の孫です。
初、魏王が子順の賢を聞かれ、使者を遣わして黄金と束帛を奉じ、聘して子順を相とされました。
子順は使者に申しました。
「もし王がよく吾の説く道を信用されるのでしたら、吾の道は固より治世(太平)をなすでしょう。蔬食して水を飲むとも、吾はなおこの道をなすでしょう。
もし、ただ吾の身を制服し(衣装を着せる)、委ねるものは重祿(重い身分)でされるのでしたら、吾はなお一夫であるのみでございます。魏王はどうして一夫より少ないものをどうされます!」
使者は固く相となられるよう請いました。子順はそこで魏に之かれました。魏王は郊に迎えそして相とされました。子順は嬖寵の官を改めそして賢才を事に任じ、無任の祿を奪ってそれらの賢才の功あるものに賜与しました。ここに職を喪った者がみな悦びませんでした。そこで謗言がおこりました。
文咨はそれらを子順に告げました。
子順は申しました。
「民のともに始めを慮るべきではないのは久いことよ!古の善く政を為す者は、その初めに謗が無いことはなかった。子産は鄭に相となり、三年たって後に謗(讒謗)が止んだ、吾が先君(孔子)の魯に相たるや、三月にして後に謗が止んだ。今、吾の政を為すことは日が新らしい。賢に及ぶことはできないといえども、どうして謗を治めようか(鎮圧する必要はない)!」
文咨は申しました。
「先君(孔子)の謗(謗られた)のは何ぞやを聞いたことがありません」
子順は申しました。
「先君(孔子)が魯に相となった際、人はその政治を誦って申した。
『麛の裘(かわごろも)にして芾されている。これらを投げても戻る無し。芾にして麛の裘、これらを投げても郵なし。』
三ヶ月がたって、政化がすでに成り、民はまた誦って申した。
『裘衣、章甫、まことに我が所を獲る、章甫、裘衣、我に恵むに私なし。』」と。
さて、ここの子順の比喩は難しい文です。漢字一つ一つの意味が難しい。すこし解読を試みてみましょう。
麛(鹿の下に弭)は鹿の子供を指すそうです。その皮でコート(皮衣・裘)を作ります。芾(草かんむりに市)は黝珩のことである、とあります。『毛詩正義』の『毛詩』の注の疏(注につけられた注です、注に出た文章や単語に注が付けられ、注の時代の、単語の意味を知ることができます)のなかに「『韠』はひざかけである」とあります。当時の上下の礼装のことだったようです。
孔子が周の時代の皮の上衣と、ひざかけを、投げ捨てた。そう表現し、当時の礼装を投げ捨ててもお咎めが無いとはなんてことだ、と民は嘆いているようです。
しかし次の歌は民が孔子を褒めたたえた歌です。裘衣、章甫とありますが、ここの裘衣は殷の皮衣、章甫は殷の冠で、これらは殷の時代の礼装だそうです。つまり当時の周の礼装を投げ捨ててから、殷の古礼を孔子が取り入れたことを称賛しているようです。
ともかく礼制を古いものに戻して、民が落ち着いたことを示しています。
文咨はこの話を聞いて、喜んで申しました。
「こうして今、先生の聖賢と異ならないことを知ることができましたよ。」
つまり民とともに初めから意図を合わせなくとも、道がおこなわれれば孔子のように最後には褒めたたえられる。子順も同じような志をもってことにあたっている、そういうことを述べたようです。
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