「いいかげんな」中原と水と馬の話

文字数 984文字

 中国では河川の地理を描いた地図というか地理書がいくつか書かれています。『尚書(しょうしょ)』という古代の歴史書にある『禹貢(うこう)』や、後に書かれた『水経(すいけい)』もしくはそれに注を加えた『水経注(すいけいちゅう)』など、河川の存在は中国人にとって特別なものでした。

老子(ろうし)』などは水をよく比喩(ひゆ)に使っていますが、それもこれら中国人の水との密接な関係を物語っていると思います。治水(ちすい)や戦術上の要所(ようしょ)として河川の位置が研究され、記録として残されていたのです。

 これらの水の国である中国で、淮水(わいすい)ライン、ということを聞いたことがあります。中国のちょうど黄河(こうが)揚子江(ようすこう)の間にある淮水という河を基準にして、北と南で気候が変化するというのです。

 穀物を作る北に対し、米作の南、そして馬などの生育がまだ可能な北の地域と、船などの水上交通が主となる南の地域、という話です。それを聞いたとき、私には、中国の歴史を見る目がちょっぴり変わって、面白いなあ、そう思いました。

 中国史上には、南と北に二つ王朝が並立し、それぞれ独自の発達を遂げた時代があります。それらもこれら気候・文化の違いが、一つの要因だったのかもしれません。

 それをふまえると、中国では北の地域では馬の生産がまだできて、逆に南に行くほど生産が難しいかもしれない、船などが交通手段になる、ということになるかもしれません。(おお、しれませんの連発(苦笑)、このへん調査不足です)

 そしてこの戦国時代でも、馬は大きな影響を歴史に与えた、天下を制するのに、必要だった。

 (ちょう)(だい)の地方を手に入れたということは、もともと西北にあり春秋時代から馬の生産地であった(しん)に、趙が対抗勢力として現れてきたということを指す可能性があります。

 こののち、趙はその新しい騎馬戦術で中原(ちゅうげん)席巻(せっけん)しますが、それはいずれぶつかる秦との戦いを予感させるものでした。

 結論を言えば、趙はひたひたと東伐(とうばつ)していく秦に対し、東での中原の盾となってその進路を(はば)むことになるのですが、それにはこの騎馬、馬の存在が根っこにある、そういえるのかもしれません。

 長々となりましたが、ここで趙が胡服と騎射を軍隊に導入したことを取り上げたのは、そういう馬の存在が、秦・趙の対決の背景となったとみていただければ、歴史の流れを知ることができ、面白いと思っていただけるのではないかとみたからです。

 まあ、話が()れました。次話に移りたいと思います。
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