主父の悲しき死
文字数 1,287文字
李兌はしばしば公子成に謁見し、そうすることで田不禮の動きに備えました。肥義は高期を注意して言いました
「公子章と田不禮は声誉は善いのだが実際は悪人である、內に主父を得て外に暴挙をなそうとしている。主父の令を矯めてそして一旦の命を擅にしようとしている。処置をしがたい。今、吾はこの事態を憂えている。夜なのに寐ることを忘れ、飢えているのに食べることを忘れてしまう。主父のまわりを盜が出入りしているのに備えないでいられようか。今より以降は、王を召す者があれば必ず吾に面を見せよ、我は身をもってその人物に先に会い、何事もなかったあとに王には入っていただこう」
高期は、「善」と答えました。
主父は、惠文王に群臣を朝廷で謁見させて自らは旁らよりその様子を窺いました。長子の章を見るとだらけた様子で、長子であるのに北面して臣となり、その弟に詘されていました。主父は心にこれを憐み、このときから趙を分けて公子章を代に王としたいと思うようになりました。計画はいまだ決しないで輟めとなりました。
主父と王は殷の紂王のつくったといわれる沙丘台というところに遊覧旅行することがありましたが、宮(居所)を別にしておったために、公子章と田不禮はその配下を率いて乱を作し、詐って主父の令で王を召しました。肥義が先ず入ったので肥義は殺されました。
高信は即座に王とともに部下を率い、戦闘を開始しました。公子成と李兌は国(趙の都・邯鄲)から至り、そして四方の邑の兵を徴発して入って難を距ぎ、公子章と田不禮を殺し、その党を処罰しました。公子成が相となり、安平君と号しました(難を平らげ国を安んじたことからという)。李兌が司寇(刑法官、司法官、裁判官)となりました。是時、惠文王は少く、成、兌が政を専らにしました。
公子章は敗れると、主父のもとに行って走げました。主父は宮を開いて章を助けました。成、兌はそのために主父を囲むことになりました。公子章は死にましたが、成、兌は謀って言いました、「章のためをもって、国主の父を囲んでしまった。すぐに兵を解けば、吾屬は夷にされるだろう!」
そこでついに主父までを囲みました。そして命令を下しました。「宮の中の人で後から出る者は夷す!」と。宮の中の人は悉く出てきました。主父は出ようとしてできず、また宮中に誰もいなくなり食を得ることができませんでした。雀の鷇をさがしてそれを生きたままで食べて命をつなぎます。そして三月あまりたって、沙丘の宮の中で餓死したのです。主父の死がはっきりすると、はじめて喪を発して使者を諸侯に赴かせました。
主父は初め長子の章を太子としたものの、後に吳娃をという寵姫を得て、彼女を溺愛し、寵愛すること数年、吳娃が子の何(惠文王)を生んだので、そのために太子章を廃して何を立てたのです。吳娃が死んでからは、惠文王への寵愛が弛みました。主父は故の太子を憐んで、二人を趙に王としようとしましたが、猶予して迷い、決心がつかないでいたために、それが原因で乱が起こったのです。
この同じ時期、秦の趙人の相・樓緩が罷免され、魏冉がこれに代わっています。
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