斉、趙に派兵す

文字数 865文字

 地理のことに少しは触れられましたので、話しやすくなったかもしれません。

 西方の秦が中央の魏を圧迫しました。圧迫された中央・西南の魏は中央・西北の趙へと攻め込みます。

 東周の顯王(けんおう)の十五年(B.C.354)、秦は東方の魏との国境、元里(げんり)というところで魏の軍隊を撃破します。魏の軍隊は秦に押し出される形で趙に攻め込み、趙の主要な都市、王のいる邯鄲(かんたん)という都市を包囲しました。

 南方の楚はすぐに救援の軍を出し、景舎(けいしゃ)という家臣に命じて趙を救わせます。しかしいかんせん魏軍は強力、楚は、はかばかしい成果を上げられません。

 戦いは翌十六年(B.C.353年)に、もつれこみました。
 当時の戦いは、よほどのことがない限り兵士である農民が自由となる農閑期に行われました。また当時の年の変わる時期は、おそらく陰暦の十月でした。

 正朔(せいさく)(年の移り代わりや暦)については()(いん)(しゅう)、それぞれ異なったルールがあるのですが、ともかく、我々の現在の感覚とは暦が異なっていたと考えてもらえればと思います。

 十五年の冬に始まった闘いが長引いて、十六年に及んだわけです。

(すいません、この辺あやふやですがそのままにします。正朔については、時々、夏の暦なのか、周の暦なのかで考証が加えられることがありますが、ここの暦については、何も書いていなかったと思います。暦のことについても含め、興味を持った方が、調べていただければと思います)

 ここで趙は、東方の大国である斉に、威王(いおう)に助けを求めます。

 ここで威王が派遣したのが、田忌(でんき)孫臏(そんひん)のコンビだったのです。

 威王は最初、孫臏を将軍とし、全軍を指揮させようとしました。
 しかし孫臏は辞退しました。刑罰を受けた人間に、配下の者は従わないでしょう、というのがその理由でした。足を切られた状態で、戦車に載れない、という事情もあったのだと思います。

 そこで威王は田忌を将軍とし、孫臏を師(参謀)として輜重を載せる、乗りやすい車の中に座らせて計謀を司らせることにしました。
 そして二人は、魏との戦いへ、龐涓(ほうけん)の率いる軍との戦いに赴いたのです。
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