知恵者・樗里子と当時の情勢
文字数 1,604文字
少しだけ、個人の感想と補足を。
この時代、西の秦 、東の齊 という二つの大国の間で、韓 、魏 、楚 などの国は揺 れているように思えます。特に秦が与えた韓と楚への被害がこの時期大きくなって、それらの国々の外交の振幅 の幅がひどくなっているのではないでしょうか。
秦は同盟したり、攻めたり、外交政策が一定していません。これは内部の指針 が一定しなかったためでしょうか?樗里疾 が亡 くなって、趙 人の樓緩 へと丞相 が代わったのも影響していたのかもしれません。主父 が思い切ったことをしたのは、趙人の樓緩が丞相の時です。
樗里疾という魅力的な人物について少しだけ触れておきましょう。『通鑑 』ではあまり触れられていませんが、『史記 』はわずかですが彼の事績 を残してくれています。興味のある方は読んでいただければと思いますが、ただ肝心 の樗里疾・本人のことを書いてある部分はわずかです。
樗里子という人は、名は疾 、秦の惠文王 (悼武王 、昭襄王 の父)の弟ですが、惠文王とは母が異 なります。つまり庶子 でしょう。母は韓の女 だったといいます。樗里子は滑稽 で多智 で、秦の人は彼を号して「智囊 」と呼んだといいます。
滑稽とは、当時の意味で弁が立つことを指し、是 を非 といい、非を是といって自在に人を操 った人をいいます。
一説には滑稽とは酒をつぐ器 のことで、俳優 (道化者)の弁が立ち、口から言葉が流れるように果てしなく続くような人を、器から果てしなく酒が吐き出されて止まない様子に例えて「滑稽」と呼んだ、とも言います。また滑稽の稽 とは計略の計 で計略が滑 らかに出てくることから、「滑稽」と呼ぶともあります。
『史記』には確か滑稽列伝があったようにも思いますが、申し訳ありませんが、まだ読んだことがなくあやふやです。ともかく、計略が無尽蔵 な人物であった、弁が流れるように出てくる人物であった、そうとらえていただければと思います。
優秀な人物で、戦いや、攻略戦でも実績を残し、ついには甘茂 と並んで丞相となります。当時の秦を支えていたのは、このあまり記録の残っていない、樗里子という人物だったかもしれません。
その知恵者、樗里子が昭王の七年に亡くなっています。ここに時代は本格的に魏冉 のものとなります。
樗里子は渭水 の南の章台 という建造物の東に葬 られました。知恵者らしい言葉を、ここに初めて肉声 を残しています。
「のち百歲ほどして、ここは多分、天子 の宮 となり、我 の墓をはさむであろう」
彼の言葉として残っているのは、これだけです。何か予言なのですが、あとからこじつけたようにも見えます。
ただ樗里子・疾の室 は昭襄王の廟 の西、渭水 の南の陰郷 の樗里(陰という郷の樗という里)にあったといわれ、秦のものたちはそのために彼を樗里子と呼んだのでしたが、漢の時代となって、果たして長樂宮 がその東に築かれ、未央宮 がその西に設けられ、その都(長安)の武庫 は正 にその墓の位置に直 たったといいます。秦の人たちは諺 にしていいました「力では任鄙 ,智では樗里」(が優れていた)、と。
どこまで本当かわかりませんが、ともかく、相当の知恵者だったといえるでしょう。彼が亡 くなることで、秦の外交は不安定化するのですが、それは彼の死のすぐ後の話です。
一方、秦がやや乱れる間、楚は態度をはっきりさせず、秦についたり、齊についたりしています。人質も、どんな理由があったのか、一旦太子を秦に入国させながら、逃げ帰らせた上に齊に人質とするようなことをしています。これが秦の怒りを呼ぶのは、間もなくのことです。
趙は西北に勢力を拡大し、中山 を併呑 して強国となりました。武靈王の絶頂 期です。しかしかのリア王のように、その主権を息子に与えたところから運命は回転し始めます。その末路を、読者はいずれ見ることになるでしょう。
ま、簡単に私の感想を述べましたが、歴史の河の流れは、大きなうねりを描きつつ、滔々 と流れていきます。
この時代、西の
秦は同盟したり、攻めたり、外交政策が一定していません。これは内部の
樗里疾という魅力的な人物について少しだけ触れておきましょう。『
樗里子という人は、名は
滑稽とは、当時の意味で弁が立つことを指し、
一説には滑稽とは酒をつぐ
『史記』には確か滑稽列伝があったようにも思いますが、申し訳ありませんが、まだ読んだことがなくあやふやです。ともかく、計略が
優秀な人物で、戦いや、攻略戦でも実績を残し、ついには
その知恵者、樗里子が昭王の七年に亡くなっています。ここに時代は本格的に
樗里子は
「のち百歲ほどして、ここは多分、
彼の言葉として残っているのは、これだけです。何か予言なのですが、あとからこじつけたようにも見えます。
ただ樗里子・疾の
どこまで本当かわかりませんが、ともかく、相当の知恵者だったといえるでしょう。彼が
一方、秦がやや乱れる間、楚は態度をはっきりさせず、秦についたり、齊についたりしています。人質も、どんな理由があったのか、一旦太子を秦に入国させながら、逃げ帰らせた上に齊に人質とするようなことをしています。これが秦の怒りを呼ぶのは、間もなくのことです。
趙は西北に勢力を拡大し、
ま、簡単に私の感想を述べましたが、歴史の河の流れは、大きなうねりを描きつつ、