土地から時代を振り返る(下)

文字数 2,619文字

さて、また続けましょう。

「二十七年(癸酉、紀元前二八八年)
 秦・趙の杜陽を抜く。

 二十八年(甲戌,公元前二八七年)
 秦は趙・新垣、曲陽を抜く。

 二十九年(乙亥、紀元前二八六年)
 秦・魏の河內を撃つ。魏の安邑を陥落させる。

 二十九年、秦・韓を夏山に破る。

 三十年(丙子、紀元前二八五年)
 秦・齊の九城を抜く。

 三十二年(戊寅、紀元前二八三年)
 秦・魏の安城を抜く。秦軍、大梁に至る。

 三十三年(己卯、紀元前二八二年)
 秦・趙の兩城を抜く。

 三十四年(庚辰、紀元前二八一年)
 秦・趙の石城を抜く。

 三十五年(辛巳、紀元前二八〇年)
 秦の白起が趙軍を破り、斬首した数、二万、代の光狼城を取る。」

 ここ以降の地名は私には少しややこしく、胡三省の注を援用します。

 杜陽とは梗陽のことだ、そう胡注は述べています。梗陽は太原郡の榆次縣の側にあるとされ、『中国歴史地図集』では秦から黄河、汾水に沿って北東にだいぶ進出し、晋陽のすぐそばにぽつねんと独立して存在しています。

 新垣、曲陽、については、新垣については正確な位置はわかりにくいが、『漢書』に王屋山が河東の垣縣にあり、沇水が出ずるところとあり、他に『水経注』の記述などから、河東郡に新しくできた垣という県が古い垣に対して新垣だったのではないか、とされています。

『地図集』では洛陽の側、王屋山を挿んで、垣と曲陽が記されています。秦の黄河沿いに下った西の地域です

 魏の河內とは魏の河東郡、つまり黄河の東の地域のことを指すのではないか、そう胡注は述べています。黄河はこの秦の渭水、洛水が流れ込む地点(河曲)を中心にして九十度に折れ曲がっており、その折れ曲がった黄河の内部を、河内、もしくは河東と呼んだのかもしれません。魏はこの土地の中心である安邑を献上し、この年、東の地域へ撤退しています。

 夏山については注もなく、『地図集』にも載っていないので、わかりかねています。 齊の九城というのも、同じく秦と齊というのは西と東に離れ離れになっている国なので、どこを指していたのでしょうか?

 安城というのは魏の黄河沿いにさらに下った都市で、魏の大梁はすぐそばにあります。かなり西で、黄河が二つに割れる地域(齊の支配地域・河間)の近くまで攻め込んでいます。

 両城というのは、二つの城と取りましたが、石城というのは先の梗陽の山を挟んだ東、離石のことではないかと胡注はしています。黄河沿いに、真北に秦は趙の領土を北上していっています。そして遠く離れた、代という地域の、趙の光狼城を攻め落としています。

 先の話で、趙が北西の領域を獲得し、秦の北部地域を領有したのですが、胡三省は、ここで白起に率いられた一軍が、黄河沿いに北上し、その領域とぶつかったとしています。

 地理のことは、言葉だけで説明しようとするとなかなか難しいですね。

 ここの部分では、真北に趙の西北の領土に入り込もうとする動き、黄河沿いに東へ下流へ下り、中原へ出ようとする動きを秦は見せている、そうお話ししておけば少しはわかりやすいでしょうか。

 洛陽の近辺は、『地図集』では点、つまり都市の記載が密集しており、優れた文化をもつ先進地だったことが推測されます。洛陽を中心とする周はこれまでの宗主でした。そこへと入っていく秦、そして北方へ(また南方へ)未開の領土を開いていく秦を見ていただければと思います。

「三十五年、また司馬錯に隴西の兵を発して、蜀から楚の黔中を攻め、これを抜く。楚は漢北と上庸の地を献ず。

 三十六年(壬午、紀元前二七九年)
 秦の白起が楚を伐ち、鄢、鄧、西陵を取る。

 三十七年(癸未、紀元前二七八年)
 秦の大良造の白起が楚を伐ち、郢を抜き、夷陵を焼く。楚・東北に都を陳に徙す。

 三十八年(甲申,公元前二七七年)
 秦の武安君は巫、黔中を定め、初めて黔中郡を置く。」

 さてここからはまた胡注を離れ、『地図集』のみで語っていきます。黔中は蜀の南東の地域になります。おそらくまだ開けていなかった地域でしょう。漢北、上庸というのは漢水をはさんで北が漢北、南が上庸、通常、二つの地域を併せて漢中と呼びます。

 この漢水流域を手に入れたことで、この漢水流域と、丹水流域(武関を出て東南の地域)から秦は楚へと進攻し、鄢、鄧、西陵をおとし、楚の代々の都であった郢を落とします。夷陵はその侵攻路に当たった都市だったようです。

 ここに秦は楚の領土深くに攻め込み、南から魏や韓の領土に圧迫を加えられるようになります。巫(蜀の東の地域)や、黔中(蜀の東南の地域)の支配権を確保し、その影響力を拡大します。楚はやむをえず陳へと遷都しました。

「三十九年(乙酉、紀元前二七六年)
 秦の武安君が魏を伐ち、両城を抜く。

 四十年(丙戌、紀元前二七五年)
 秦の相國の穰侯が魏を伐ちました。韓は暴鳶に魏を救わせましたが、穰侯は大いにこれを破りました、斬首すること四万、暴鳶は開封へと走りました。魏は八城を納れて和を結びました。穰侯はまた魏を伐ち、芒卯を走らせ、北宅に入りました。魏の人は溫を割いて和を結びました。

 四十一年(丁亥、紀元前二七四年)
 魏はまた齊と合従しました。秦の穰侯は魏を伐ち、四城を抜き、斬首した数は四萬でした。

 四十二年(戊子、紀元前二七三年)
 趙人、魏人が韓の華陽を伐ちました。韓の陳筮の機転で秦が出兵しました。魏王は南陽を割いて和を結びました。」

 ここに出てきた都市は、洛陽近辺に集中しています。開封(大梁)は齊に近い魏の首都ですが、魏はここまで押し込まれることになりました。魏は洛陽の南方の南陽をさしだして、和を請うています。

 ここまで、土地について長々と書いてきましたが、退屈だったでしょうか。このように、土地と各国の動きを照合させるのは、文字のみでは難しいのかもしれません。地図を片手に置いていただければわかりやすいのかもしれないですが、それができない以上、私の非力をお詫びしておきます。

 秦の昭襄王が即位してから三十四年が経過していました。この三十四年の間に、広大な領地を秦は手に入れたことになります。白起が登場して二十年がたっています。

 そしてこの治世の最大の出来事として、まもなく長平の戦いが起こります。

 物語は『資治通鑑』巻五、周紀五へと入っていきます。このままで、昭襄王の治世を、お楽しみいただければ幸いです。
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