澠池の会

文字数 1,263文字

 さて田單(でんたん)について一通り触れましたので、歴史の流れに戻りましょう。

 秦王は使者を派遣して趙王に告げ、黄河の外の澠池(びんち)において(よしみ)をおさめ会合をしようと願いました。唐代の杜佑(とゆう)の残した記録(『通典(つてん)』)によると、澠池には東、西の二つの城があり、秦と趙が接する地点であった、とのことです。

 趙王は行きたくありませんでした、廉頗(れんぱ)藺相如(りんしょうじょ)は相談して進言しました。

「王が行かれなくては、趙が弱く(ひる)んでいることを示すことになります。」

 そこで趙王は遂に行かれることになりました。相如が侍従しました。

 廉頗は一行を送り国境に至り、王と(けつ)(決、別れを)して申しました。

「王の行かれますのに、道里(みちのり)会遇(かいぐう)の礼が行われるのを勘案しますに、還られるまでに三十日は過ぎないかと。もし三十日たっても還られなければ、太子を立てて秦の望みを絶たれますことを、請いたいと思います。」

 楚の懐王(かいおう)幽囚(ゆうしゅう)のことが頭にあったのでしょう、廉頗は勇将として名をはせた人物でした。軍人として、秦との衝突を予測しています。王はこれを許しました。

 秦王と趙王は澠池に到着し、会することになりました。秦王は趙王と酒盛りをしましたが、酒宴も真っ盛りになりまして、秦王は趙王に(しつ)()してほしいと願いました。瑟とは二十五弦の楽器で、伏羲(ふくぎ)という古代の王が造ったものといわれます。史記のほうには、黄帝(こうてい)素女(そじょ)?という女に五十弦の瑟を弾かせたところ、黄帝の悲しみが止まらなくなりました。そこでその瑟を裂いて二十五弦としたともあります。趙人は瑟を善くし、そこで秦王は瑟を鼓することを願ったのです。

 趙王は瑟を演奏しました。

 藺相如もかえして秦王に(ほとぎ)?を撃つことを願いました。

 胡三省の注には、缶とは瓦器(がき)である、とあります。胡三省の注をあれこれ見てみますと、缶とはお盆のことで、天を仰いで缶を叩いて歌嗚(かめい)するのが、秦の歌声(民謡)である、とされます。『說文(せつもん)』という字書には缶は酒を盛るもので,秦人はこれを演奏して節(リズム)を取る、とあり、また別の書には缶は足盆のようなもので,古の西戎(せいじゅう)の楽であり、秦俗はこの楽器を使い、缶の形状は覆盆(ふくぼん)(ひっくり返した盆)のようで、四つの杖でこれを撃つ、とあります。秦独特の楽器だったようです。

 秦王は承知しませんでした。相如は申しました。

「五步の內におりますので、臣が(くび)の血で大王を汚させていただいてもよろしいでしょうか!」

 やんわりとした物腰ですが、あなたを殺しますよ、と恫喝(どうかつ)したわけです。当然、秦王の左右の臣下は色めき立ち、相如を滅多(めった)切りにしようとしました。相如は目をみはらせて一喝し、これを威嚇(いかく)しました。周りのものは皆おとなしくなりました。

 秦王は嬉しそうではありませんでしたが、相如のために一回、缶を()ちました。

 酒が終わっても、秦はついに趙に危害を加えることができませんでした。趙人も盛んに備えがあることを示しました。秦はあえて動きませんでした。趙王は国に帰ることができ、藺相如は上卿(じょうけい)となりました。そして位は廉頗の右(上位)にでることができるようになったのです。
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