白起 散り、信陵君 趙を救う
文字数 1,407文字
周の周の赧王 の五十八年(B.C.二五七)
十月、武安君を罷免して士伍 とし、陰密 に遷しました。注には罪があって官爵を失ったものを士伍というとあります。
十二月、ますます兵卒を徴発して汾城 のかたわらに軍しました。
武安君(白起)は病状が重く、まだ行かずして、諸侯が王齕 を攻め、齕はしばしば退却しました。
使者が毎日のように至り、王はそこで使者を武安君に派遣し、咸陽 のうちに留まることをできなくしました。武安君は去り、咸陽の西門をでること十里で、杜郵 に至りました。
王と應侯(范雎)とは群臣と謀議しました。
「白起が遷されるにあたり、意はなお怏怏 として餘言 がありました。」王はそこで使者をして白起に剣を賜わせました。武安君はついに自殺しました。秦の人たちは白起を憐 み、鄉・邑(行政単位だが、村々を指すと思う)はみな白起を祭祀しました。
魏の公子・無忌は大いに秦の師(軍)を邯鄲 の下に破りました。王齕は邯鄲の囲みを解いて敗走しました。鄭安平 は趙の苦しめるところとなり、二万人の兵をひきいて趙に降伏しました。應侯は鄭安平との関係で丞相となる事が出来たのですから、これで罪をえることになりました。
公子・無忌はすでに趙を存続させ、最終的にあえて魏に戻りませんでした。賓客と趙に留まって住み、部将にその軍を率いさせて魏に還 らせました。
趙王は平原君と計り、五城で公子を封じました。趙王は掃除して自ら公子を迎え、主人の礼を執り、公子を引いて西がわの階に立たせました。公子は側行 して辞譲 し、東の階の上からはいりました。
自らの罪を公子は述べ、魏にそむき、功とて趙にはないとしました。趙王は公子と飲んで暮に至り、口から五城を献ずるというのをいうに忍びず、そのため公子は退讓しました(その申し出を控えたか)。趙王は鄗 を公子の湯沐 の邑 (引退するための当てがい扶持)としました。魏もまたふたたび信陵 を公子に捧げ、領地としました。
公子は趙に処士(仕官していない人)の毛公 というものが博徒 の間に隠れていて、また薛公 というものも賣漿家 (味噌醤油などを売る家か)に隠れていると聞き(彼らの名は~公としか残っていない)、これらと会おうとしましたが、二人とも見 えようとはしませんでした。公子はそこで間步 (お忍び)してふたりの游ぶに従いました。平原君は聞いてそれをそしりました。
公子は申しました。
「わたしは平原君の賢たることを聞いている、そのために魏にそむいて趙を救った。今、平原君のともに游ぶところをみるに、たんなる豪挙 (豪傑の挙動のみするもの)だけである。士を求めようとはしていない。無忌がこの両人に従って游んだからといって、まだその自分の欲にそわないのを恐れる。平原君はそもそも羞 をおもうべきではないか」
そして旅装 をなして去ろうとしました。平原君は冠をぬいで謝りました、そのために信陵君は去るのを思い止まりました。
平原君は魯 連 を封じようとしましたが、使者が三たび返りましたが、最終になっても受けることを承知しませんでした。また千金で魯連の寿命を祝おうとしましたが、魯連は笑ってもうしました。
「天下の士の貴 ぶところのものは、人のために患 を排し、難 をとき、紛亂 を解決して、取るものがないということです。もし取るものがあれば、これは商賈 (商人)の事でありますよ!」
そしてついに平原君のもとを辞して去りました。終身また会うことがありませんでした。
十月、武安君を罷免して
十二月、ますます兵卒を徴発して
武安君(白起)は病状が重く、まだ行かずして、諸侯が
使者が毎日のように至り、王はそこで使者を武安君に派遣し、
王と應侯(范雎)とは群臣と謀議しました。
「白起が遷されるにあたり、意はなお
魏の公子・無忌は大いに秦の師(軍)を
公子・無忌はすでに趙を存続させ、最終的にあえて魏に戻りませんでした。賓客と趙に留まって住み、部将にその軍を率いさせて魏に
趙王は平原君と計り、五城で公子を封じました。趙王は掃除して自ら公子を迎え、主人の礼を執り、公子を引いて西がわの階に立たせました。公子は
自らの罪を公子は述べ、魏にそむき、功とて趙にはないとしました。趙王は公子と飲んで暮に至り、口から五城を献ずるというのをいうに忍びず、そのため公子は退讓しました(その申し出を控えたか)。趙王は
公子は趙に処士(仕官していない人)の
公子は申しました。
「わたしは平原君の賢たることを聞いている、そのために魏にそむいて趙を救った。今、平原君のともに游ぶところをみるに、たんなる
そして
平原君は
「天下の士の
そしてついに平原君のもとを辞して去りました。終身また会うことがありませんでした。