孟嘗君、齊へ帰る
文字数 1,286文字
周の赧王の十六年(B.C.二二九)。
秦王は齊の孟嘗君の賢人であるとのうわさを聞き、秦の涇陽君を齊に人質として送って、孟嘗君に来られんことを請いました。孟嘗君は来たって秦に入りました。秦王は孟嘗君を丞相としました。
十七年(B.C.二九八)
或るものが秦王に告げ口して言いました。
「孟嘗君が秦に相たれば、必ず齊の利益を先にして秦の利益を後にするはずです。秦は危いことですなぁ!」
秦王はそこで樓緩を相とし,孟嘗君を囚え、殺そうとしました。
孟嘗君は人をして解放されんことを秦王の寵姬に求めました。寵姫は言いました。「願わくば君の狐白裘を得んことを」つまり、私にお願いごとをするなら、孟嘗君の狐白裘が欲しいわ、といったわけです。
狐白裘とは、狐の掖の皮をあつめてつくった裘で、値千金の裘といわれました。たんに一狐の掖を使ってつくったものとは違う、そういわれていたのです。
孟嘗君には確かに狐白裘がありました。しかし已に秦王に献上した後だったのです。したがって寵姫の求めに応じる方法はないかと思われました。しかし孟嘗君の賓客に善く狗盜をする者がいたのです。彼は秦の王宮の藏の中へ入り,狐白裘を盗み出してきました。そして姫に献じたのです。姫はそこで孟嘗君のために王に口添えし、秦王は孟嘗君を解き放ちました。
しかし王は後悔しました。そして孟嘗君を追わせます。孟嘗君は關(関所)に至っていました。関所の法では、雞が鳴けば客は通過していいことになっていました。時は尚お蚤く早朝で、追っ手はまさに追いつこうとしていました。客の中に善く雞鳴(鶏の鳴きまね)をする者がおり、野生の雞がそれを聞いて皆な鳴きはじめました、孟嘗君はそこで危機を脱して、帰ることができたのです。
これも故事になっている、鶏鳴狗盗というお話で、孟嘗君を語るときによく出てくるお話でした。
この年、楚の人は秦を揶揄して言いました
「社稷(国家)の神靈に頼り,我が国には王がいるぞ!」
秦王は激怒し、兵を繰り出し武關を出て楚を撃ち、斬首すること五万、楚の十六城を取りました。
さてです。一度、『通鑑』の書き手の気持ちになってみませんか?
孟嘗君のできごとって、すっごくおもしろいなぁ、客を大事にする人だったんだな、大活躍じゃないか、ま、いいや、ここにはめ込んどいてやれ。そう思って、ここにこの話をはめ込んだのでしょうか?
この秦の楚への出兵の前には、先ほどの齊が太子を楚に帰し、楚は太子を国王とした、政争があった、という話がありました。つまり楚において秦国派、齊国派の政争があり、秦がその政争に敗れた後に出兵した、という展開になります。そういう記事の間に、孟嘗君が慌てて帰国した話を、故事として『通鑑』の書き手は挟んでいるのです。
つまり煩雑をいとわずに書けば、秦と齊の政争→孟嘗君の帰国→秦の楚への出兵、と事件が並んでいることがわかります。
偶然にこのように並べたのでしょうか?それとも意図があって、優れた洞察眼があった故にこのように並べたのでしょうか?
また、考えていただければと思います。私にはわからないので。
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