迫りくる秦・衰える魏

文字数 762文字

 もし、この物語が孫臏(そんひん)の物語なのなれば、次はこののち、十三年後?の馬陵(ばりょう)の戦いへと舞台を移すべきでしょう。

 しかしこの物語は秦の物語であり、秦帝国の成立までをたどる、という無謀な挑戦を行っています。

 読者にはしばし孫臏が退場するのをお許し願って、秦の国の勃興(ぼっこう)、秦帝国の成立の流れをたどるのに、お付き合い願えたらと思います。

 さて、強国・魏の敗北は、中原(ちゅうげん)三晉(さんしん)の国々のパワーバランスを微妙に変えました。こののち、魏の国々は他の国々から押し込まれ、特に秦に土地を奪われて国土を削られていきます。

 桂陵(けいりょう)の戦いがあったのは周の顯王(けんおう)の十六年(B.C.353)でしたが、続く十七年(B.C.352)秦の大良造(だいりょうぞう)(おそらく衛鞅(えいおう))が魏の西方を攻撃します。また諸侯も魏の東方の襄陵(じょうりょう)を囲み、魏の軍隊は諸侯に押し込まれることになります。

 魏は西方の都市・安邑(あんゆう)と、東方の都市・大梁(たいりょう)を中心とした国だったようですが、西と東、両方で敵軍を受け、苦しい戦いを強いられます。

 翌年の周の顯王の十八年(B.C.351)秦は衛鞅をして魏の固陽(こよう)を囲ませ、ついにこれを降します。固陽は当時の魏の西における防衛線・長城の起点となっていた軍事要塞で、秦防御の拠点でした。この拠点を奪われ、魏の秦への備えは弱体化しました。

 またこの間に、韓は東周(とうしゅう)の2つの都市を切り取ってしまい、基盤の強化を図り、趙は魏に一旦奪われた邯鄲(かんたん)を奪還してから魏と同盟を結び、それぞれの独立を保っています。

 ひたひたと魏に迫っていく秦の姿が浮かび上がってくるでしょうか?魏の土地を食い荒らすことで、秦は成長していきます。

 その政策の主導権を握り、国の方向性を導いていた人物、それは魏からやってきた人、魏にとどめておかないのならば、彼を殺しなさい、彼は魏に(あだ)をなすでしょう、そういわれた人物、衛鞅でした。
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