中原の雄・魏の国
文字数 1,835文字
さて商鞅 (衛鞅 )の変法によって強くなりつつあった秦ですが、その前に立ちはだかる国がありました。
それは、魏の国です。
秦の東に位置し、この当時、まだ黄河の屈曲の以西や、函谷関以西に土地を領有していたのが魏の国でした
魏の国はかつての晉 の国の名族から分かれ、三晉(趙、魏、韓)として中原で優れた文化を誇った国です。
晉が三つの国に分かれたのち、魏が一時中原の主導権を取ったように、『通鑑』は描いているように思います。(なお中山国を以前晉から分かれたものとしましたが、春秋時代は鮮虞と呼ばれた国だったようです)
魏の繁栄を最初に支えたのは文侯です。魏の文侯は卜子夏 (『論語』に出てくる子夏 です)や田子方 などの人物を師とし、段干木 という隠者を尊び、礼を尽くしました。そのため、多くの賢者が集まって、国が栄えたといいます。
いくつかのエピソードを紹介してみましょう。
ある時、文侯が群臣と宴を張って音楽を楽しんでいた時です。突然、雨が降ってきました。その時、文侯が慌てて馬車を命じて、街の外の森へと行こうとしました。
「いったいいかがされたのですか、酒を飲んで楽しんでいらっしゃいますし、天もまた雨を降らそうとしていらっしゃいます。なぜ文侯様はおくつろぎになられませんのですか」
群臣たちが口々に止めました。
「私は虞人 (狩りの役人)と猟を約束している。楽を行っているといえども、今すぐに虞人に申して、どうしても皆を集める約束を取りやめにしなければならない」
文侯はこう言って、わざわざ宴会の行われている場から郊外の森、狩場まで行って、虞人に申して狩りをやめさせました。
付け加えておくと、当時の狩りは勢子が獲物を追い立てて、三方(四方からではない、一つの方角は獲物が逃げられるよう開けておく)から獲物を集めて狩るような大がかりなものでした。だから準備などにも時間がかかり、それを慮 った文侯が、それを急いで中止させ、民のことを考えたのだと思われます。
またこんなこともありました。
韓の使者がやってきて、趙を伐ちたい、だから兵(軍隊)を貸してほしいそう語りました。
「私は趙と兄弟となる約束を結んでおります、だから兵を貸すことはできません」
文侯はそう断りました。
今度は趙の使者がやってきました。内容は同じです、兵を借りて韓を打ちたいというのです。
文侯はまた、兄弟だから、そういって断りました。
はじめはどちらの国も魏を恨みましたが、あとで対応の一貫し、嘘をつかない文侯の姿勢を知ることになり、「ああ、魏は我々より文化が優れている」と、争いを仕掛けてこなくなりました。これにより、魏は豊かになりました。
二枚舌を使わない、率直である、という点については、このような挿話も残っています。
文侯は樂羊 (有名な楽毅 の祖先)というものを将軍として、中山国を伐ちました。そして勝利を収めた後、自分の子をその土地の支配者として任命しました。
勝利の祝宴のことです。多少お酒が入り、文侯も口が大きくなっていたのでしょう、
「私はどのような君主だ」
そう群臣に問いました。
臣下も、お祝いの場です、
「仁君であられ、民のことをよく考えられる君でございます」
ほとんどがそう答えました。
その中で、任座 というものがはっきりといいました。
「文侯様は中山国を攻め取られ、その領土を弟様にお与えになるのではなく、ご子息にお与えになりました。どうして仁君であり、民のことを考えておられると申し上げられましょう」
文侯の顔色が変わりました。周りの者も、居心地が悪くなり、それを察した任座はその場を小走りに退出しました。
文侯は不機嫌そうにお酒を飲んでいます。
次は翟璜 という人の番でした。翟璜は申しあげました。
「文侯様は仁君で有らせられます」
「ほう」
文侯は翟璜の顔を見つめました。
「どうしてそのようなことがわかる」
先ほど任座が思い切ったことを申した後です、皆が心配をしました。
翟璜は答えました。
「私は『君が仁であれば、臣は直(はっきりとものをいう)である』、そう聞いております。先ほどは任座が直言を行うのをお聞きいたしました。このために、私は文侯様が仁君であると知ったのでございます」
これを聞いた文侯は任座を呼び戻させ、親しく出迎えて、二人を丁寧にもてなしたといいます。
このように、魏の文侯は人から信用される人でした。そしてそのために魏は重んじられるようになりました。
この文侯を継いだのが武侯です。
それは、魏の国です。
秦の東に位置し、この当時、まだ黄河の屈曲の以西や、函谷関以西に土地を領有していたのが魏の国でした
魏の国はかつての
晉が三つの国に分かれたのち、魏が一時中原の主導権を取ったように、『通鑑』は描いているように思います。(なお中山国を以前晉から分かれたものとしましたが、春秋時代は鮮虞と呼ばれた国だったようです)
魏の繁栄を最初に支えたのは文侯です。魏の文侯は
いくつかのエピソードを紹介してみましょう。
ある時、文侯が群臣と宴を張って音楽を楽しんでいた時です。突然、雨が降ってきました。その時、文侯が慌てて馬車を命じて、街の外の森へと行こうとしました。
「いったいいかがされたのですか、酒を飲んで楽しんでいらっしゃいますし、天もまた雨を降らそうとしていらっしゃいます。なぜ文侯様はおくつろぎになられませんのですか」
群臣たちが口々に止めました。
「私は
文侯はこう言って、わざわざ宴会の行われている場から郊外の森、狩場まで行って、虞人に申して狩りをやめさせました。
付け加えておくと、当時の狩りは勢子が獲物を追い立てて、三方(四方からではない、一つの方角は獲物が逃げられるよう開けておく)から獲物を集めて狩るような大がかりなものでした。だから準備などにも時間がかかり、それを
またこんなこともありました。
韓の使者がやってきて、趙を伐ちたい、だから兵(軍隊)を貸してほしいそう語りました。
「私は趙と兄弟となる約束を結んでおります、だから兵を貸すことはできません」
文侯はそう断りました。
今度は趙の使者がやってきました。内容は同じです、兵を借りて韓を打ちたいというのです。
文侯はまた、兄弟だから、そういって断りました。
はじめはどちらの国も魏を恨みましたが、あとで対応の一貫し、嘘をつかない文侯の姿勢を知ることになり、「ああ、魏は我々より文化が優れている」と、争いを仕掛けてこなくなりました。これにより、魏は豊かになりました。
二枚舌を使わない、率直である、という点については、このような挿話も残っています。
文侯は
勝利の祝宴のことです。多少お酒が入り、文侯も口が大きくなっていたのでしょう、
「私はどのような君主だ」
そう群臣に問いました。
臣下も、お祝いの場です、
「仁君であられ、民のことをよく考えられる君でございます」
ほとんどがそう答えました。
その中で、
「文侯様は中山国を攻め取られ、その領土を弟様にお与えになるのではなく、ご子息にお与えになりました。どうして仁君であり、民のことを考えておられると申し上げられましょう」
文侯の顔色が変わりました。周りの者も、居心地が悪くなり、それを察した任座はその場を小走りに退出しました。
文侯は不機嫌そうにお酒を飲んでいます。
次は
「文侯様は仁君で有らせられます」
「ほう」
文侯は翟璜の顔を見つめました。
「どうしてそのようなことがわかる」
先ほど任座が思い切ったことを申した後です、皆が心配をしました。
翟璜は答えました。
「私は『君が仁であれば、臣は直(はっきりとものをいう)である』、そう聞いております。先ほどは任座が直言を行うのをお聞きいたしました。このために、私は文侯様が仁君であると知ったのでございます」
これを聞いた文侯は任座を呼び戻させ、親しく出迎えて、二人を丁寧にもてなしたといいます。
このように、魏の文侯は人から信用される人でした。そしてそのために魏は重んじられるようになりました。
この文侯を継いだのが武侯です。