甘茂、奔る
文字数 1,166文字
周の赧王 の九年(B.C.三〇六)、秦 の昭王 は向壽 に宜陽 を平定させました。秦はすでに甘茂 によって魏 とともに宜陽を攻略していましたが、境界 を制定し、民人 を安 らげさせたということであります。
同時に、昭王は樗里子 と甘茂とに命じて魏を伐 たせました。
甘茂は王に、武遂 という都市 を韓に復帰させることを進言します。
『史記 』の楚 世家 によると、韓王 の先祖代々の墓は平陽 という都市にあるとありますが、武遂は平陽を離れること七十里で、韓王の先祖代々の墓を秦は指呼 の間に置くことになったのです。
去年、八年(B.C.三〇七)に秦は魏 とともに宜陽を攻め落とし、そのために黄河 を渉った地点である武遂に城を築いていたのですが、今それを甘茂の進言で韓に復帰させたということです。
向壽と公孫奭 はこれについて甘茂と論争し、武遂を返さないという自らの意見を通すことができませんでした。このため、二人は甘茂を怨 んで讒言 しました。甘茂は懼 れて、魏を蒲阪 という地点で伐 つのをやめ、亡 げ去ります。
そこで樗里子は魏と和平を講じて兵を罷 めました(撤退させたのです)。これを聞いた甘茂はさらに齊に奔 りました(逃げた、ということです)。
この辺は複雑なので、ちょっと整理しておく必要があります。
まず、この時点で、秦は悼武王 から昭襄王 へと代替わりしていた、ということです。甘茂は悼武王の時に宜陽を攻め落としたのですが、帰ってきてみると、昭襄王(正確には宣太后 )に権力が移っていたことになります。つまり帰ってみると、命令を発した主君が入れ替わっていたことを知っておかないといけないのです。
次に、樗里子(樗里疾 )、公孫奭は宜陽攻略に反対していた家臣であるということです。この甘茂の事件は、宜陽攻略に反対した家臣が、賛成していた甘茂を追放した、とみることもできます。甘茂は外国出身の家臣であり、讒言が多く王のもとに集まるだろう、そう自ら予言していたのですが、図らずもそれが的中したといえるでしょう。
甘茂は自らの将来を未然に察知 し、上手に逃げだしたともいえます。
そもそも甘茂は魏と前年に手を組んで宜陽を攻めていたのですが、その味方だった魏を次の年に最前線に立って攻めさせるというのですから、どうぞお逃げくださいと仕向けるような仕打ちだったのかもしれません。
食えない人たちの集まりであるといえるでしょう。
この年、趙 の武靈王 が再び中山 の地を攻略し、寧葭 にまで至り、西は胡 の地を侵略し、榆中 にまで至りました。林胡王 (胡の一部族)が馬を献 じました。趙に帰ると,樓緩 を秦にゆかせ,仇液 を韓にゆかせ、王賁 を楚 にゆかせ、富丁 を魏にゆかせ、趙爵 を齊 にゆかせました。燕 には使者は送られていません。
代の相である趙固 が胡の主 となり,その兵をまとめることになりました。
楚王が齊、韓と合従しました。
同時に、昭王は
甘茂は王に、
『
去年、八年(B.C.三〇七)に秦は
向壽と
そこで樗里子は魏と和平を講じて兵を
この辺は複雑なので、ちょっと整理しておく必要があります。
まず、この時点で、秦は
次に、樗里子(
甘茂は自らの将来を未然に
そもそも甘茂は魏と前年に手を組んで宜陽を攻めていたのですが、その味方だった魏を次の年に最前線に立って攻めさせるというのですから、どうぞお逃げくださいと仕向けるような仕打ちだったのかもしれません。
食えない人たちの集まりであるといえるでしょう。
この年、
代の相である
楚王が齊、韓と合従しました。