穰侯・魏冉の賢
文字数 1,077文字
周の赧王の十年(B.C.305)、彗星があらわれました。
彗星については、注は五行説と歳星などの観点から詳細な議論を導き出してくれているようですが、残念ながら手に負いかねるので、詳しくは触れません。
彗星は、小さなものは数寸の尾をしか引かないのですが、長いものは天を貫くように尾を引きます。箒星(掃星)とも呼ばれ、掃除をし、舊いものを除き、新しいものを布くことを暗示することから、戦乱が起こることを暗示するものとされました。そこまで書かれていることはわかるのですが、それ以上のことは、専門家の論を待ちたいと思います。私では十分に説明しきれないようです。
趙の武靈王は中山を伐ち、丹丘、爽陽、鴻の塞をとり、また鄗、石邑、封龍、東垣の都市を攻略しました。
鄗については以前、武靈王が陥落しそうだったが、陥落しなかった、と述べていたのですが、どちらかといえば祖先伝来の土地が陥落したことを憚って、そう話していたのかもしれません。ここに鄗を攻略した、とありますが、注などに特別な記載はないようです。
ともかく趙は破竹の勢いで中山国の中に攻め込んでいきました。中山は四つの邑を献じて和を請うています。
さて、秦の宣太后の異父弟に穰侯・魏冉と呼ぶひとがありました。また宣太后の同父弟に華陽君・羋戎と呼ぶひとがありました。つまり宣太后の母は、一度再婚している可能性があります。(はじめ魏氏に嫁ぎ、のち羋氏に嫁いだということです)
王の同母弟、つまり宣太后の生んだ太子には、他に高陵君、涇陽君という人物がいました。
これら宣太后の一族の中では、魏冉が最も賢とされ、惠王、武王の時より、職に任じられ、事件が起これば用いられていました。
武王が薨ぜられると、武王には子供がいなかったので、武王の諸弟は王になろうと争いあいました。唯だ魏冉だけが、よく昭王を立てようと努めたのです。(当然でしょう、昭王は姉の息子で、魏冉は昭王の叔父にあたります)
昭王が即位すると(宣太后が権力を握ると)、魏冉を将軍とし、咸陽を衛らせました。
この年、庶長の壯(人名)及び大臣たちが、諸公子と反乱を起こすことを計画しました。魏冉はこれを粉砕します。
惠文后らはみな良死をえなかった(まともな死に方をできなかったということ、ちなみに惠文后は惠文王の后で、昭王の義理の母にあたります)、とあります。悼武王の后は出奔し魏に逃げ込みました。
王兄弟の善からざるものは、魏冉がみなこれを滅しました。
王は少く、宣太后が自ら政事を治め、魏冉に為政を任せました。魏冉の威は秦の国を震わせることになりました。
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