張儀と蘇秦を評して

文字数 1,143文字

 張儀や蘇秦はみな、縱橫の術で諸侯へと遊説し、(くらい)は富貴にいたり、天下はあらそい(した)ってその説を実行しました。また魏人で公孫衍(こうそんえん)という者があり、号して犀首(さいしゅ)といい、また談説で名を(あらわ)しました。

 そのほかに蘇代(そだい)蘇厲(それい)周最(しゅうさい)樓緩(ろうかん)のような徒は、紛紜して天下の形勢を偏らせ、弁舌や(いつわり)でたがいを高めたために、彼らを紀律することはできなかったのです。

 そしてその中で張儀、蘇秦、公孫衍が最も著名なものでありました。

 孟子がこのことについて論じていっています。

 あるものが謂いました。

「公孫衍、張儀は、どうして大丈夫でないでしょうか、一たび怒れば諸侯ですら(おそ)れました。彼らがどこかに安居してやっと天下は(やす)んだのでは?」

 孟子は答えていいました。

「これは(彼らを)どうして大丈夫とするに足るであろうか!君子がいて、天下の正位に立ち、天下の正道を行い、志を得てそこで民とその地位、その正道による、志を得なければそこで(ひと)りその道を行う、富貴も(みだりに)することができず、貧賤も移すことができず、威武も(しりぞ)けることができない、これこそが大丈夫と呼ぶべき人物なのである」と。

 揚子(揚雄)の『法言』にもいっている。

 ある人が問うた。

「(張)儀、(蘇)秦は鬼谷先生の術を学んで縱橫の言を習い用い、中国を安んずることそれぞれ十余年でした、これをどう思われますか?」

 揚子が答えておっしゃられた

詐人(さじん)(嘘つき)である、聖人は(これ)(にく)む」

「孔子の言を読んでから儀、秦の事を行えば、何如也(いかがでございましょう)?」

「甚だしいかな、(おおとり)の鳴きごえで、鷲の羽であるとは!」

「そうでございましたら、子貢はそのようなことを為さなかったのでございますか?」

(ここは『史記』に基づく事実誤認があると注はしている。司馬遷は子貢と張儀、蘇秦を同時代の人間としているが、考訂が必要であると『通鑑』はしている。揚雄は司馬遷に引きずられてそのままを記したと注にはある。ここではそのままをつづける。)

(おさ)めて(おこた)(懈)らない、(子貢は齊を(おさ)め、齊をして呉を破り、晉を強くして、越を抑えた、それぞれの国を強くしたという説を司馬遷は取ったと注はしている)子貢はこれを恥じた。說いて富貴になることができなかったらば、張儀、蘇秦はそれを恥じた」

「儀や、秦は才能が超絶していたのでしょうか、それとも誰かの足跡(先人の知恵)を踏んだのでしょうか」

「昔に任人(佞人)というものがあり、帝はそれをふせいだ。才能があったためでないか?佞人の才能ではないか、佞人の才能ではないか,(われわれ)の徒の求める才能ではないのだ!」

 秦王は甘茂に蜀の(しょう)(そう)を誅させました。反乱があったとされます

 秦王と、魏王が臨晉(りんしん)に会いました。

 趙の武靈王が吳廣(ごこう)(むすめ)孟姚(もうよう)をめとりました。寵愛され、この人が惠后となりました。子・()を生みました。
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