秦王・政、立つ ー鄭國と廉頗についてもー
文字数 1,683文字
五月、丙午、荘襄王が薨じました。
太子の政が立ちました。始皇帝です。生まれてから十三年でした。国事は皆、文信侯(呂不韋)に決せられ、文信侯を号して仲父と称しました。
晉陽が反きました。
始皇帝(秦王・政)の元年(B.C.二四六)
蒙驁 が晉陽を擊定しました。
韓が秦人を疲れさせ、東伐を無からしめようとしました。そこで水工(水利技術者)の鄭國をして秦に反間をさせ、涇水を開鑿して仲山より渠をつくり、北山と並びながれて、東に洛水に注ぐようにさせました。二つの川の間をつないだようです、運河事業です。
作ることの中程に、鄭國が韓の工作員であるという事情が発覚しました。秦の人は鄭國を殺そうとしました。
鄭國は申しました。
「臣は韓のために数年の命を延べられた、しかし渠(運河・用水路)が成れば、またなんと秦の万世の利になることよ。」そこで秦はついに渠をつくらせました。
填閼の水を注いで舄鹵の地・四万余頃 (頃は単位)を灌漑し、収穫は皆畝ごとに一鐘でした。
この辺、農業的なこと、数字的なことが並びますので深入りを避けますが、注によると填閼というのは壅泥のことで濁った水を引いて咸鹵の田に注いで、さらに肥美にさせたというような趣旨のことが書かれています。(さっぱりわかりません、農業技術・知識については深入りしません)恐らく黄河の水を灌漑し、黄土を拓いたのだと思われます。
関中は鄭國の事業よりますます富饒になりました。
敵国の人を許して大事業をなさしめる。なかなか味わいのある個所だと思います。
二年(B.C.二四五)
麃公 (~公という封公で、名称を歴史家が失ったと注は言っています)が卒を率いて卷を攻め、斬首すること三萬でした。
趙は廉頗を假相國とし、魏を伐ち、繁陽を取りました。この年、趙の孝成王が薨じ、子の悼襄王が立ちました。
趙は武襄君・樂乘をして廉頗に代えました。廉頗は怒り、武襄君を攻め、武襄君は逃げました。廉頗は魏に出奔しました。しばらくたちましたが、魏は廉頗を信用することができませんでした。
趙の師(軍隊)は何回か秦にくるしめられました。趙王はまた廉頗を得ることを思いました。廉頗もまた趙に再び用いられることを思いました。趙王は使者を使わして廉頗がまだ用いられる状態かどうかを見ました。
廉頗の仇 である郭開は多く使者に金を与え、廉頗を讒言させました。廉頗は使者と謁見すると、一飯に斗米,肉十斤を食べ(たくさんという表現でしょう)、甲 を被って馬に上り、そして用いられる事が出来ることを示しました。
使者は還って報じて申しました。
「廉将軍は老いたといえども、なお善く飯されます。しかれども臣と坐して、頃之 のあいだに三たび矢 (糞)をこぼされました。」
いわれのない讒言をしたわけです
趙王は廉頗も老いたと思い、遂に召しませんでした。郭開の策謀は当たったわけです。この人はよほど権力欲が強かったらしく、のちにも趙の明暗を左右したようです。注者が嘆いていますが、ここでは措いておきましょう。
行きどころのなくなった廉頗を楚の人が陰かに迎えました。廉頗は一たび楚の将となりましたが、功はありませんでした。廉頗は申しております、「我、趙人を用いんことを思う!」趙の騎馬戦の名手、廉頗も、騎馬戦の普及していない楚では腕を振るうまもなかったのかもしれません。楚の首都にのちになった壽春でなくなっています。
廉頗のことは始皇帝の二年の箇所に挿入されていますが、楽乗が相国となったところから廉頗が亡くなるまでには時間の流れがあるように感じられます。私の感じ間違いでしょうか?趙の王が孝成王から悼襄王に代わった際に、挿入されたのかもしれませんが、どの王が、誰が廉頗をどうしたのか、注意が必要かもしれません。
ただ白起といい、廉頗といい、名将の最後もなかなか悲しいものです。その前に、鄭國が渠を拓いた記事があるだけに、そのコントラストは鮮やかに立ち上がってくるかもしれません。
さて秦の始皇帝の三年(B.C.二四四)、大きな飢饉がありました。
蒙驁が韓を伐ち、十二城を取りました。
太子の政が立ちました。始皇帝です。生まれてから十三年でした。国事は皆、文信侯(呂不韋)に決せられ、文信侯を号して仲父と称しました。
晉陽が反きました。
始皇帝(秦王・政)の元年(B.C.二四六)
韓が秦人を疲れさせ、東伐を無からしめようとしました。そこで水工(水利技術者)の鄭國をして秦に反間をさせ、涇水を開鑿して仲山より渠をつくり、北山と並びながれて、東に洛水に注ぐようにさせました。二つの川の間をつないだようです、運河事業です。
作ることの中程に、鄭國が韓の工作員であるという事情が発覚しました。秦の人は鄭國を殺そうとしました。
鄭國は申しました。
「臣は韓のために数年の命を延べられた、しかし渠(運河・用水路)が成れば、またなんと秦の万世の利になることよ。」そこで秦はついに渠をつくらせました。
填閼の水を注いで舄鹵の地・
この辺、農業的なこと、数字的なことが並びますので深入りを避けますが、注によると填閼というのは壅泥のことで濁った水を引いて咸鹵の田に注いで、さらに肥美にさせたというような趣旨のことが書かれています。(さっぱりわかりません、農業技術・知識については深入りしません)恐らく黄河の水を灌漑し、黄土を拓いたのだと思われます。
関中は鄭國の事業よりますます富饒になりました。
敵国の人を許して大事業をなさしめる。なかなか味わいのある個所だと思います。
二年(B.C.二四五)
趙は廉頗を假相國とし、魏を伐ち、繁陽を取りました。この年、趙の孝成王が薨じ、子の悼襄王が立ちました。
趙は武襄君・樂乘をして廉頗に代えました。廉頗は怒り、武襄君を攻め、武襄君は逃げました。廉頗は魏に出奔しました。しばらくたちましたが、魏は廉頗を信用することができませんでした。
趙の師(軍隊)は何回か秦にくるしめられました。趙王はまた廉頗を得ることを思いました。廉頗もまた趙に再び用いられることを思いました。趙王は使者を使わして廉頗がまだ用いられる状態かどうかを見ました。
廉頗の
使者は還って報じて申しました。
「廉将軍は老いたといえども、なお善く飯されます。しかれども臣と坐して、
いわれのない讒言をしたわけです
趙王は廉頗も老いたと思い、遂に召しませんでした。郭開の策謀は当たったわけです。この人はよほど権力欲が強かったらしく、のちにも趙の明暗を左右したようです。注者が嘆いていますが、ここでは措いておきましょう。
行きどころのなくなった廉頗を楚の人が陰かに迎えました。廉頗は一たび楚の将となりましたが、功はありませんでした。廉頗は申しております、「我、趙人を用いんことを思う!」趙の騎馬戦の名手、廉頗も、騎馬戦の普及していない楚では腕を振るうまもなかったのかもしれません。楚の首都にのちになった壽春でなくなっています。
廉頗のことは始皇帝の二年の箇所に挿入されていますが、楽乗が相国となったところから廉頗が亡くなるまでには時間の流れがあるように感じられます。私の感じ間違いでしょうか?趙の王が孝成王から悼襄王に代わった際に、挿入されたのかもしれませんが、どの王が、誰が廉頗をどうしたのか、注意が必要かもしれません。
ただ白起といい、廉頗といい、名将の最後もなかなか悲しいものです。その前に、鄭國が渠を拓いた記事があるだけに、そのコントラストは鮮やかに立ち上がってくるかもしれません。
さて秦の始皇帝の三年(B.C.二四四)、大きな飢饉がありました。
蒙驁が韓を伐ち、十二城を取りました。