蘇秦の連縦策、成る

文字数 1,591文字

 ここに蘇秦(そしん)は連縦策の中心・要となり、並びにこれまで説いてきた六つの国の相を兼務することとなりました。そして結果を北へもどり趙に知らせ、乗っている車、随従の騎や輜重(しちょう)を王者に()らしました。

 ここから胡三省の注が考証を試みています。

史記(しき)』の蘇秦伝には、「秦の兵はあえて函谷関(かんこくかん)(うかが)わないこと十五年。」とあり、「その後、秦は犀首(さいしゅ)をして齊、魏を(あざむ)かせ、ともに趙を()たせたので、蘇秦は趙を去って連縦策がみな解けた。」とある、とされます。この事について胡三省は触れています。

 確かに実際に十五年も從約(連縦策)が続けばすごいのですが、齊、魏が趙を伐って、連縦策が破れたのは、胡三省の指摘によると、明年(つぎのとし)にあるとされます。その事実がそれぞれ『史記』と違っていることはこのようだと、胡三省は示しています。

 秦本紀には、「惠文王(けいぶんおう)の七年、公子(こう)が魏と戦い、その将、龍賈(りょうか)(とりこ)にす」とあり、これは蘇秦が趙に連縦策の完成を報告して後、二年の事になります。

 どうして秦が函谷関を窺わないことが十五年もあっただろう!そう胡三省は語っています。

 このような十五年という誇張(こちょう)は、游談(ゆうだん)の士が蘇秦を誇大に表現してそういっただけだ、と胡三省は言っています。

 今、『通鑑』の表現をみてみると、『史記』の「十五年間の空白」の表現をとっていません。

 六つの大国を束ね、口先三寸で十五年もの間、国々をまとめて秦に立ち向かわせる。そのようなことができれば、蘇秦は英雄です。しかし、最後の楚への弁舌で軽々しい約束を行っているように、利で釣って連縦策をまとめた面もあるか、実際にどこまで連縦がなされたかは疑問です。

 二つの大国の利害を調節するだけでも苦労するのが現実でしょう。それを六つも、それも巨大な国々を自分の意のままに操ろうとしたのですから、蘇秦が苦労したのも、よくわかるのではないのでしょうか。

 蘇秦の弁舌を聴いていると、非常に爽やかで聞き心地がいい、そして相手を褒め続けている。しかしその弁舌は秦を敵にし、自らがよい待遇を得ようという面もあり、術策的な面もあったのでしょうか。

 しかし連縦策が一度でもなったとしたら、あれだけの巨大な国々を、あれだけの広大な地域を行き来してまとめ上げ、もし二年だけだとしても、秦に向けまとめあげたのならば、蘇秦はただものではなかったのでしょう。

 胡三省はあまり蘇秦を評価していないようにも感じます。それは蘇秦の行く末を知っていたからだとも思われますが、その成し遂げた足跡は大きかったのではないでしょうか。

 私にはわかりません。

 ともかくここが蘇秦の到達点でした。六つの国をまとめあげ、実権を握った。しかしここからの蘇秦の運命がどうだったか。詳しいところは、以下を読んでいただければと思います。

 さて、蘇秦が連縦策の中心人物となったのち、齊の威王(いおう)(こう)じ、子の宣王(せんおう)闢強(へききょう)が立ちました。成侯(せいこう)田忌(でんき)を売ったことを知り、そこで田忌を召して再び用いました。

 燕の文公(ぶんこう)が薨じ、子の易王(いおう)が立ちました。

 衛の成侯(せいこう)が薨じ、子の平侯(へいこう)が立ちました。

 二つ成侯が出てきていますが、齊の成侯と、衛の成侯は別人物です。区分けして読んでいただければ。

 この年、三人の君主が亡くなり、王が交代しました。このような中で連縦の策は結ばれています。

 周の顯王(けんおう)の三十七年(B.C.三三二)。

 秦の惠王が犀首をして齊、魏を欺き、ともに趙を伐たせました。そこで連縦の策は敗れ、趙の肅侯(しゅくこう)は蘇秦を()めました。

 蘇秦は恐れ、燕に使いし、必ず齊に報じると請いました。

 蘇秦が趙を去ると連縦の策はみな解けました。趙人は河(黄河か?)の水をきってその水を齊、魏の師(軍隊)に注ぎました。齊と魏の師はそこで去りました。

 魏は陰晉(いんしん)で秦と講和しました。(実際は華陰(かいん)という土地でだったようです。)

 齊王は燕を伐ち、十城を取りました。しばらくしてそれを帰しました。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み