長平の戦い (周・赧王 五十五年)(承前)

文字数 2,103文字

 果たして、この時点で、太后は勝てると思っていたのでしょうか?趙括は、勝てると思っていたのでしょうか?趙括の母が、あえて上書し、「括を将軍にしないでください」、そう願った、本当の理由は何だったのでしょう?

 趙の多くの人が、「秦とはぶつかるな」、そう意見しています。平陽君、しかり、虞卿、しかり、藺相如や、戦場で秦軍と対峙している廉頗にしても、まともにぶつかって勝てると思っていなかったでしょう。

 水面下では、和平交渉が進んでいます。趙軍は、自信満々で秦軍の前に立ちふさがったのではなく、悲壮な覚悟で迎撃を準備しています。趙の運命は、風前の灯火だったのです。その戦地に、民の輿望を一身ににない向かう趙括、送り出す母と、主君である太后。

 どのような想いだったのでしょう?その想い、特に母の想いを想うと、痛ましく思います。

 こののち、その母はこれを機会にして申したといわれます。

「もし成功しないことがございましたら、(わたし)は坐につながらないようお願いします!」と。

 趙王(太后)はこれを許したといわれます。しかし、これは本当だったのでしょうか?世の人が、罪を逃れる母を、息子をよく知っている、賢明だ、とたたえるのならば、なぜその息子を死から救ってやれなかったのだ?そう問いたい。

 古今東西、父母の子供を想う気持ちは、尊いものだと思います。

 秦王は趙括がすでに趙の将軍となったと聞き、すぐさまひそかに武安君・白起を上将軍とし王齕をその配下の裨將とし、軍中に命令させました。

「あえて武安君が将であることを洩らすものがあれば斬る!」

 趙括は軍にいたり,ことごとく軍の約束(軍律)をあらため、軍吏の配置換えをし、兵を出して秦の軍を撃ちました。武安君はいつわって敗れ、敗走しましたが、二個の奇兵部隊を展開し、連携してそして趙の軍隊を脅かしました。趙括は勝に乗じて追って秦の(とりで)にいたりましたが、(とりで)は堅く(ふせ)がれて入ることができません。奇兵の二万五千人が趙軍の背後を絶ちました、また二つのうちの一つ五千の騎兵隊が趙の(とりで)との間を絶ちました。

 趙軍は分かれて二つとなり、糧道(兵站線)を絶たれました。武安君(白起)は軽兵を出して趙軍を撃たせましたが、趙軍は戦っても勝つことができず、そこで(とりで)を築いて堅守しそして救いの至るのを待ちました。

 つまり趙括は突出して包囲され、廉頗が初めに取っていた作戦に戻ってしまったわけです。

 秦王は趙の食糧の道が絶たれたと聞き、自ら河內に行って民の年の十五以上のものを徴発しことごとく長平に至らせ、趙の救兵と糧食を遮断させました。

 齊の人、楚の人は趙を救いました。しかし趙の人は食が乏しくなり、(こくもつ)を齊に請いました、齊王は許しませんでした。

 周子が申しました。

「それ趙の齊、楚との関係は、捍蔽(おおい)であります、歯に唇があるようなものでして、唇が(なく)なればつまり歯は蔽いなく、剝き出しになるのです。(唇亡びて、歯寒し)。今日、趙が亡びれば、明日の(わざわい)は齊、楚に及びます。趙を救うの務めは、漏れる甕を捧げてでも焦げる釜に沃ぐようであるべきです。さらに趙を救うというのは、高義です。秦の軍を退けるのは、名を顕らめることです。義として亡国を救い、威は強秦を(しりぞ)ける。務めずして此をなしているのに粟をおしめば、国の計略をなす者として過まっておられます!」

 齊王は聴かれませんでした。

 九月,趙の軍の食は絶えること四十六日に及びました、みな内々に互いに殺しあってその肉を食らいました。趙括は急ぎ秦の壘を来たり攻めんとし、(とりで)を出て四隊となろうしました。

 戦術家は、四隊に分かれ、一隊ずつせめかかり、四隊まで攻めかかって、相手に防ぐ暇を与えないようにしようという策であったと述べています。

 しかし四隊が出た後,五番目が再び攻撃することができず、出ることもできませんでした。(この辺不明瞭です)趙括は自ら鋭卒を出して搏戦(にくだんせん)しましたが、秦人が趙括を射殺しました。

 趙の軍は大敗し、卒四十萬人がみな降伏しました。

 武安君は申しました。

「秦はすでに上黨を抜いたが、上黨の民は秦の民となることを願わずに趙に帰した。趙の卒も反複するだろう、ことごとくこれらを殺さなければ、反乱をなすかもしれない。」

 そこで(いつわり)を設けてみな趙の卒を坑殺(あなうめ)しました。その(わか)き者二百四十人のみ(のこ)り、趙に帰ることができました。前後を通じて斬首したり(とりこ)とした数は四十五萬人となりました。趙の人は大いに震いました。

 なお、蛇足ながら、秦軍(白起)が趙軍を坑殺したことについては、残酷であるとして、古来評判が悪いです。

『詩経』国風、秦風には黄鳥という詩があり、生き埋めにされる勇士を悼む詩となっております。このように秦には陪葬として生き埋めを行う風習があり、古くから批判の対象になっています。

 そのような風習があったことを知ったうえで、この処置を見てみると、少しは印象が変わるかもしれません。

 黄鳥は悲しい詩ですが、興味のある方は触れていただければと思います。

 ともかくここに、白起、率いる秦軍は、趙括の趙軍を長平に破り大勝利を収めました。しかし戦いは、まだ終わっていなかったのです。
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