趙の平原君の話
文字数 1,954文字
さて『資治通鑑』では、先に述べた孟嘗君 の記事ののちに、趙の平原君 の記事が出てきます。
趙王 が弟であった平原君を平原 、もしくは東武城 という土地に封じ、彼が平原君と名乗 ったこと。食客 が数千人と号 されたこと。公孫龍 、孔穿 (孔子の子孫)、鄒衍 のような学者がその中に含まれていたこと。彼らが議論を戦わせて、趙の国の学風が起こったことなどが述べられていると思うのですが、いかんせん哲学、もしくは思想分野の記事にもかかっていると思われ、これについては詳 しく触 れません。
趙は当時領土を拡張し、威 は中原 にふるっていましたが、ここにある趙王とは、主父 ・武靈王 であって、平原君はその弟なのか、趙王・何 であって、平原君はその弟なのか、わかりにくい。
『史記』の注には平原君は趙・惠文王 の兄弟とあるので、おそらくは何の兄弟であると考えられますが、そうすると幼少の何の兄弟です、いつ頃の事績をここでは語られているのか、比定 しにくいようです。つまりおそらくは後の事績 も含めてここのエピソードは語られているようです。
このエピソードは『資治通鑑』の巻三、周紀 三の最後のエピソードになっており、その議論の内容が、何らかのメッセージになっている可能性もあるのかもしれません。
ただ、私には十分に思想面については意図を読み取れません。したがって、自分の意見をここでは闕 きたいと思います。今後も、思想分野については同じ手法を取る可能性があります(もう少し上手に書きたいものですが)。
なお、『通鑑』の注釈者である胡三省 については、この項目について、注の中でですが、このエピソードを公孫龍という口先の達者な人物が孔穿、鄒衍という真の学者にやり込められたエピソードとみて、『資治通鑑』が「小弁は終 には大道 を破 るに足 らざるを言う」としています。
小手先の議論は、大義を破れない、そういうことを『通鑑』が主張している、胡三省はそうみているのだと思いますが、それは今後の主父とその息子たちをめぐる趙国の内乱の動向 と重なっているのかもしれません……。
ともかく、趙国が、当時文化についても発展を始めていた、そういうことはいえると思います。
まあ、参考までに訳出しておきますが、内容はあまりとれていません。ご容赦 を願います。
公孫龍という者がいた、善く堅白同異 の弁をした。平原君は彼を賓客 とした。孔穿 が魯より趙に適 き、公孫龍と臧 の三耳 を論 じた、龍はたいへん弁が明析 であった。子高 (孔穿)は応 じなかった。俄 にして退出を求め、明日 、また平原君に見えた。
平原君は聞いた。
「疇昔 の公孫の言は本当に正しいのか?先生はどう思われますか?」
孔穿は対 えて言った。「然り 。臧 に三耳ありとするといいってよろしいかもしれませんな。そうではありますが、本当に難しいことですよ(實難)!僕 は機会を得てまた君 に問いたいものです。今、三耳を言うことがとても難しくいって本当は非であったとします、両耳をいうことがとても易 くて本当は是であったとします、ご存知ですか(判別できますか)?、君 はいったい易 すきことばだとしても是 とできますか、それとも難 しいいいまわしに引きずられないで非 とできますか?」
平原君は応 えることができませんでした。明日 、公孫龍に命じていいました。
「公 はまた孔子高と議論しめさるな!あの人は理 が辞 に勝 っている。公 は辞が理に勝っている、終 いには必ず恥をかくだろう」と。
鄒衍 が趙を通り過ぎました。平原君は鄒衍と公孫龍を「白馬は馬にあらず」の說について論じさせました。
鄒子(鄒衍)はいいました。「だめですな。そもそも弁論という者は,主張の種類を別にしてもそれぞれが害 ないあうことはないもので、異なる主張を序列して優劣 をつけようとしても乱 めることはできません。意を推測して意指 に通じて、その所謂 (内容)を明らめても、弁論は人をより深く理解させるでしょうか?論者お互いを迷わさないでしょうか?
だから勝者がその守るところを失わず、勝たなかった者もその求めるところを得る。そのような議論であって、はじめて弁論はなすべきなのであります。文 を煩 わしくまぶして互いに假 をつぶし、辞 を飾 ってお互いを論難 しあう、譬 えを巧 みにして文を移 し、人の気を引いてその意に及ばないように幻惑 する、このような議論であれば大道を害 います。
繳 (矢に糸をつけてする狩りのこと、その糸がもつれるという)がもつれるように言を争わせ、互いが競 ってぶつかりあってから後に息 む、こんなことをして君子を害わないことがあるでしょうか、衍 はご遠慮します」
その場にいたものはみな善い心がけだと讃嘆した。公孫龍はこれからついにしりぞけられるようになった。
以上です。
物語は、続いて『資治通鑑』巻四、周紀四に入っていきます。
趙は当時領土を拡張し、
『史記』の注には平原君は趙・
このエピソードは『資治通鑑』の巻三、
ただ、私には十分に思想面については意図を読み取れません。したがって、自分の意見をここでは
なお、『通鑑』の注釈者である
小手先の議論は、大義を破れない、そういうことを『通鑑』が主張している、胡三省はそうみているのだと思いますが、それは今後の主父とその息子たちをめぐる趙国の内乱の
ともかく、趙国が、当時文化についても発展を始めていた、そういうことはいえると思います。
まあ、参考までに訳出しておきますが、内容はあまりとれていません。ご
公孫龍という者がいた、善く
平原君は聞いた。
「
孔穿は
平原君は
「
鄒子(鄒衍)はいいました。「だめですな。そもそも弁論という者は,主張の種類を別にしてもそれぞれが
だから勝者がその守るところを失わず、勝たなかった者もその求めるところを得る。そのような議論であって、はじめて弁論はなすべきなのであります。
その場にいたものはみな善い心がけだと讃嘆した。公孫龍はこれからついにしりぞけられるようになった。
以上です。
物語は、続いて『資治通鑑』巻四、周紀四に入っていきます。