范睢、須賈に馬食をさせる

文字数 2,036文字

 さて、范睢(はんしょ)は秦において地位を固め、丞相となり、應候(おうこう)となりました。さてそれからの話です。

 魏王があの須賈(しゅか)に秦を()わしめました。應侯は敝衣(へいい)(ぼろぼろの服)で間隙をぬって歩き(この辺いまいち微妙、事務の間隙をぬったか?人の間を目立つように歩いたか?)、往きて須賈に見えました。

 須賈は驚いたといいます、申しました。

「范叔固ではないか、つつがなきや!」

 そして坐に留めて飲食し、一つの綈袍(ていほう)を取って范睢に贈りました。(胡注によると、綈袍というのは使い古した綿の長襦袢だったようですが、いまいち読み込めていません)そしてついに須賈のために范睢は御(車の御者)となって丞相の(やくしょ)に至りました。そして申したのです。

(わたし)が君のために先ず入って相君にお通ししましょう」

 須賈は范睢が久しく出でこないのを怪しんで、門下(もんばん)に問いました。門下は申しました。

「范叔などおらん,鄉者(さきのもの)は吾が丞相の張君である」

 范睢は姓名を()えて張祿と名乗っていました、そのために門下はそう答えたのです。須賈は欺かれたことを知り、そこで膝行して入り罪を謝りました。

 應侯は坐って、須賈を責讓(せきじょう)し、かつ申しました。

(おまえ)の死なないですむ所以(りゆう)は、綈袍で恋々とし、なお故人(旧知)としての(おもい)があったからだけだ!」

 そして大いに道具を供え、諸侯の賓客を招請しました。須賈を堂の下に坐らせ、(わらくば)を置き、(ざっこく)を前にして馬のようにそれらを食べさせました。

 そして帰って魏王に告げさせて申させました。

「速かに魏齊(ぎせい)の頭を斬ってもって来い、さもなくば、まさに大梁(魏の首都)を(みなごろし)にしてやるぞ!」

 須賈は還りました。そしてそのことを魏齊に告げました。魏齊は趙へと奔走し、平原君の家に(かくま)われました。

 趙の惠文王が薨じ、子の孝成王・丹が立ちました。平原君を相としました。

 さてここでも申しておきましょうか。應侯・范睢という人は、なんて残虐で、非道な人だったのでしょう。自分の旧知の二人、須賈をして馬のように藁を食らわせ、魏齊の首をよこせと要求するとは、なんてひどい人なんでしょう。復讐心の強かった人なんでしょうね。

 ここでも、反対意見はありませんか?

 注意すべき点は、周の赧王(なんおう)の四十二年に、使者が魏から齊へと派遣されていることです。魏齊の命令で(魏の齊、なんて意味深な名前なんでしょう)、須賈が齊へと派遣され、范睢が同行したことを、覚えておられる方もおられると思います。この魏から齊への使者の派遣は、単純に「お元気ですか?」という挨拶の使節ではなく、魏と齊とが同盟し、秦を攻めよう、そのような合従の合議のための使節だったのです。帰ってきた范睢がひどい扱いを受けたのも、その秘事を漏らさないためでした。

 四十二年の同盟以降、魏は齊の手先となり動きをはじめます。それを抑えるために、秦軍は出動し、いくつかの都市を攻め落としていますが、その中で魏に人質となっていた太子(皇太子)が、これらの動きがわからず逃げ遅れたのか、なぜか亡くなったことも、先に触れたことです。

 息子を亡くした昭襄王はどう思ったでしょうか。范睢という人物は非常に人の気持ちを読むのに長けた人物だったように思いますが、范睢が王の気持ちに気づかなかったわけはないと思います。

 王は悲しかった。しかし公式な使者に対して、王が報復を働くようなことは許されません。では誰がそのようなことをできるでしょう?そうです、范睢が代わりに、その役を果たしたのではないでしょうか。

 これ等は私の想像にすぎません。小説としては非常に面白い筋が書けたとは思われませんか?

 范睢という人は、長平の戦いで秦軍の動きを支援して、諸侯の軍を壊滅に追い込みかけた人ですが、そのような点も、歴史家の筆に影響を与えたのかもしれません。本当のことは、はるかかなたのことで、よくわかりませんが。

 五十年(B.C.二六五)

 秦の宣太后が薨じました。九月、穰侯が出でて陶に之きました。

 司馬温公が、一般的な范睢の評価、そして穰侯の礼賛を行っています。それを見ておきましょう。

 臣の光(司馬光)が申します、穰侯は昭王を援立しました、その災害を除き、白起を薦めて将とし、南に(えん)や、楚の都である(えい)を取り、東は地を齊につなげ、天下の諸侯を稽首(けいしゅ)(首を地につける最敬礼)して秦につかえさせ、秦をますます強大にしたのは、穰侯の功であるのです。その專恣(せんし)(専らにすること)や驕貪(きょうたん)(奢りむさぼること)はそのために(わざわい)を買うに足るとはいえども、まだことごとくは范睢の言のようではなかったのであります。范睢のようなものは、よく秦に(まごころ)のある(はかりごと)を為すものではなく、ただ穰侯の地位を得ようと望み、そのためにその(のど)をつかんでこれを奪っただけであります。そしてついには秦王に母子の義を絶たせてしまい、舅甥の恩を失わせた。これをまとめるに、范睢とはまことに傾危(国を傾ける)の士であったのです!

 世上流布している評価は、このようなものです。私の意見が、間違っているのだと思います。
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