孔子の子孫・子順(下)
文字数 1,745文字
しかし子順はこののち魏の相たること凡 そ九月、大計をのべるごとに用いられず、そこで喟然 として慨嘆 し申しました。
「言葉が用いられない、これは吾が言 が当たらないからだ。言葉が主に当たらない、それなのに人の官に居り、人の祿 を食 む、これは尸利 し素餐 するようなものだ。吾が罪は深い!」
尸利とは、仕えていて道を行うことができずに言葉が利を主とするようになること、素餐とは、君の祿を空しく食みて言葉が為すことがあることができないこと、のようです。そのように注はとっているのではないでしょうか。ともかく子順はそこで退いて病をもって致仕 (退職)しました。
人が子順にいって申しました。
「王は子 を用いなかった。子 は行かれるのか?」
子順は答えました。
「行く?どこへ行くのだ?山東の国(函谷関 より東の国々を指す)はまさに秦になろうとしている。秦は不義を為している、義の入る所などない」
ついに家で寝っ転がって過ごしていました。
新垣固 というものが子順に請うて申しました。
「賢者のあるところでは、必ず化 が興り治が致 ります。今、子 は魏に相たりて、まだ特別優れた政事を聞かないのにすぐさま自分から引退されました。おもうに志 を得なかったのでございましょう。ですがどうしてこれほど速く去られたのでしょう?」
子順は申しました。
「特別優れた政事がないから,自ら退いたのではない、死病 には良医 などない。
今、秦には天下を吞食 するの心がある。義で秦に事 えるとも、固 より安じることを獲 ない。亡びるものを救うには暇 (時間)がないのだ。それなのに何の教化が興こるであろう!
昔、伊摯 (伊尹 ・のちに殷 の名宰相となる)が夏 にあり、呂望 (太公望 ・のち周に仕え名軍師?となる)が商 (殷)にあったことがある。そうであるのに、二人のような優秀な人物がいたのに二国は治まらなかった。どうして伊、呂が天下がおさまることを望まなかったであろうか?時の勢い(当時の形勢)が、亡国の勢いを止めることが無理であったのだ。
当今、山東の国は、敝 れて振わず、三晉 は地を割 いてそして安 を求め、二周(西周 、東周 )は折れて秦に入っている。燕 、齊 、楚 はすでに屈服している。このようなことを観るに、二十年を出ないうちに、天下はことごとく秦となるであろう!」
子順はそのように言ったと伝えられています。
これからのち、秦の始皇帝の二十五年に天下は併合されました。凡 そ三十八年が必要だったといわれていますが、子順の言葉は、ほぼ事実をついていたといえるかもしれません。。
こののち『通鑑』は五十七年に入りますが、それまでにエピソードを挿んでいます。
秦王は應侯 范雎 のためにきっとその仇 に報いようとしました。かって范雎をひどい目に合わせた魏齊 が平原君 の所にいるのを聞きました(魏齊が逃げたことは先に書いたはずです)。そこで應侯のために好言 で平原君を誘い秦に至ったところで執 らえました。そして使 を遣 わして趙王に言って申しました。
「魏齊の首を得なければ、吾 は王弟(平原君)を關(函谷関)から出さないでしょう!」
魏齊は窮 し,虞卿 にあたりました。虞卿は相 の印を棄て、魏齊と偕 に亡 げました。魏に至り、信陵君 によってそして楚へ走ろうとしました。信陵君の意 は魏齊に見 え難 しとのことでした。魏齊は怒り、自殺しました。
趙王はついにその首を取りそして秦に与えました。秦はそこで平原君を帰しました。
ここでは、魏齊、虞卿の行動が描かれています。齊国派だった二人が、長平の敗退の直後だったのでしょうか、逃げ出した様子が描かれています。『史記』では、虞卿が友人の魏齊のために高い身分をなげうってともに逃げたように書いてあったかもしれません。ですが齊国派と秦国派との政争の流れ、長平の敗戦のあと逃げ出したととらえると、様相は違うかもしれません。
なお、平原君はこの当時楚へ使者として派遣されたり、趙で政略を練ったり、様々な事象に関わっています。平原君が捕らえられ、交渉の材料にされたかどうかについても、このあたりの状況は錯綜しているようでよくわかりません。
さて九月、秦の五大夫の王陵 がまた兵を将 いて趙を伐ちました。長平の戦いに続く、邯鄲の包囲戦の始まりです。武安君 は病で、行くことができませんでした。
「言葉が用いられない、これは吾が
尸利とは、仕えていて道を行うことができずに言葉が利を主とするようになること、素餐とは、君の祿を空しく食みて言葉が為すことがあることができないこと、のようです。そのように注はとっているのではないでしょうか。ともかく子順はそこで退いて病をもって
人が子順にいって申しました。
「王は
子順は答えました。
「行く?どこへ行くのだ?山東の国(
ついに家で寝っ転がって過ごしていました。
「賢者のあるところでは、必ず
子順は申しました。
「特別優れた政事がないから,自ら退いたのではない、
今、秦には天下を
昔、
当今、山東の国は、
子順はそのように言ったと伝えられています。
これからのち、秦の始皇帝の二十五年に天下は併合されました。
こののち『通鑑』は五十七年に入りますが、それまでにエピソードを挿んでいます。
秦王は
「魏齊の首を得なければ、
魏齊は
趙王はついにその首を取りそして秦に与えました。秦はそこで平原君を帰しました。
ここでは、魏齊、虞卿の行動が描かれています。齊国派だった二人が、長平の敗退の直後だったのでしょうか、逃げ出した様子が描かれています。『史記』では、虞卿が友人の魏齊のために高い身分をなげうってともに逃げたように書いてあったかもしれません。ですが齊国派と秦国派との政争の流れ、長平の敗戦のあと逃げ出したととらえると、様相は違うかもしれません。
なお、平原君はこの当時楚へ使者として派遣されたり、趙で政略を練ったり、様々な事象に関わっています。平原君が捕らえられ、交渉の材料にされたかどうかについても、このあたりの状況は錯綜しているようでよくわかりません。
さて九月、秦の五大夫の