衛の嗣君・周の命脈・秦、楚を攻める
文字数 2,078文字
先に『史記』に依り、藺相如の「和氏の壁」の事績を述べましたが、また歴史の流れに戻りましょう。
周の赧王 の三十二年(B.C.283)、衛の嗣君 という君主が薨 じ、子の懷君 が立てられました。嗣君は微隱 (密かな隠し事)を暴くのが好きで、縣令の(この辺いまいちよく読み取れないのですが)褥 ?を発 きて席(座るためのゴザのようなもの?)が痛んでしまったものがおりましたが、嗣君はこれを聞いて、縣令に席を賜りました。令は大いに驚き、嗣君を神のようだとしました。
また人を関所や市場を通らせて(胡三省の注は關市という官吏だとしていますが、ここは関所、市場と取りました)、金を賄賂 として贈らせ、その後にそれぞれの官を召し、通り過ぎたものでおまえに金をやったものはなかったか?、と問い、お前はそれを還してやれ、といったので、関所や市場の官は大いに恐れました。
また泄姬 を寵愛し、如耳 を重んじましたが、寵愛やお気に入りにしていることによって自分を騙 さないかと恐れ、そこで薄疑 をまた重用し如耳に敵対させ、魏妃 を尊んで泄姬を掣肘 させました、そして、「これでうまくお互いに並びあったわい」、といいました。
席については、『論語』だったか(『論語』ならばおそらく郷党篇だと思いますが)に、席が正しくなければ座につかない、とあり、礼儀上貴重だったものですが、それにしても、嗣君という人は、なにかちぐはぐな、的外れな印象を与える人だったようです。
荀子がこのことを論じて言っています、「成侯 、嗣君は、単なる聚斂 ・計数 (民から取り立てるのみ)の君であり、民の意を取るには至らなかった。鄭 の子產 (春秋時代の鄭の名臣・『論語』にも名が残る)は、民の意を取ったものであるが、政治を行うには至らなかった。齊の管仲(春秋五覇の首・齊の桓公の宰相)は政治を行ったものである、しかし礼を修めるには至らなかった。だから礼を修めるものは王となり、政治を行うものは強くなり、民の意を取るものは国を安じ、聚斂するものは、亡びるのだ。」と。
三十三年(B.C.282)、秦は趙を伐ち二つの城を抜きました。
続く三十四年(B.C.281)秦は再び趙を伐ち、石城 を抜きました。
秦では穰侯 がまた丞相となりました。
楚は齊(当時、滅亡に瀕し、楚の与国となっていた)、韓と共に秦を伐とうとし、そのために周を狙おうとしました。
これは楚が秦を撃つことを名目とし、周を狙ったのかもしれません。
王は東周 の武公 を使者として楚に派遣し、楚の令尹 (他国の丞相などにあたる)の昭子 に言わせました。
「周は狙うべきではございません」
昭子は申しました。
「もし周を攻略しようと思えば、周は滅びるでしょう。周は風前の灯火であるのに、どうして攻略してはならないのですか」
武公は答えました。
「西周の地は、長い方を整え短い方を補ってやっても、百里四方を過ぎません。確かにその名は天下の盟主として鳴り響いていますが、その土地を割いてもあなたの国を肥えさすに足りず、国民を併せても兵を強くするには至らないのです。
さらには、周を攻めるものは名は弑逆 の名を蒙 ります。そこまでしても周を攻めようとする者があるのは、祭器(夏・殷・周と伝わった宝器・九つの鼎を指す、鼎の軽重を問う、のように、この九つの鼎は、後世の玉璽 のごとく、王位の象徴であった)があるためであります。
たとえば虎の肉はなまぐさくその爪牙 は鋭い、そうであるのに人は虎を攻撃する。皮が貴重であるからです。もし澤(湿地)におる麋 (大鹿)が虎の皮をかぶれば、人は攻撃すること虎を攻撃する萬倍にもなるでしょう。
楚の地を裂き周を狙わなければ(周に戻せば?)、逆に楚の国を富ますにたり、楚の名をへりくだらせれば,王を尊ぶことになります。
今、あなたが天下の盟主を害い、三代(夏・殷・周)と伝わった宝器を奪おうとされるならば、宝器が南へ楚へとくだるにつれ、兵(各国の軍)もともに至るでしょうよ!」
この言葉を聞いて、楚の計略はやめられ、行われませんでした。
三十五年(B.C.280)、秦の白起 が趙軍を破り、斬首二萬を得、代 の光狼城 を攻め取りました。胡三省は秦の新しい中原への侵攻ルート、上郡 、九原 、雲中 を白起が開拓したのではないか、そう注の中で言及していますが、今は地図を開く労をいといます、すいません。
秦はまた司馬錯 に隴西 の部隊(秦の西方の地域にある大隴山 ?と呼ばれる山のふもとの、冀戎 、豲戎 、氐 、羌 と呼ばれる異民族による部隊と紹介されています。秦が長年にわたり開拓し、大隴山の西ということで、隴西郡という行政組織が置かれていたようです)を率いさせ、その部隊で蜀 を伝って楚の黔中 を攻めさせ、占領することに成功しました。楚は漢水 以北の土地と上庸 の土地を献上しました。
三十六年(B.C.279)
秦の白起が楚を伐ち、鄢 、鄧 、西陵 をとりました。
秦は着々と、じわじわと領土を広げていきます 。そして白起に率いられたその領土拡張は、中原にも広がっていくのですが、それはもう少し後のことのようです。
周の
また人を関所や市場を通らせて(胡三省の注は關市という官吏だとしていますが、ここは関所、市場と取りました)、金を
また
席については、『論語』だったか(『論語』ならばおそらく郷党篇だと思いますが)に、席が正しくなければ座につかない、とあり、礼儀上貴重だったものですが、それにしても、嗣君という人は、なにかちぐはぐな、的外れな印象を与える人だったようです。
荀子がこのことを論じて言っています、「
三十三年(B.C.282)、秦は趙を伐ち二つの城を抜きました。
続く三十四年(B.C.281)秦は再び趙を伐ち、
秦では
楚は齊(当時、滅亡に瀕し、楚の与国となっていた)、韓と共に秦を伐とうとし、そのために周を狙おうとしました。
これは楚が秦を撃つことを名目とし、周を狙ったのかもしれません。
王は
「周は狙うべきではございません」
昭子は申しました。
「もし周を攻略しようと思えば、周は滅びるでしょう。周は風前の灯火であるのに、どうして攻略してはならないのですか」
武公は答えました。
「西周の地は、長い方を整え短い方を補ってやっても、百里四方を過ぎません。確かにその名は天下の盟主として鳴り響いていますが、その土地を割いてもあなたの国を肥えさすに足りず、国民を併せても兵を強くするには至らないのです。
さらには、周を攻めるものは名は
たとえば虎の肉はなまぐさくその
楚の地を裂き周を狙わなければ(周に戻せば?)、逆に楚の国を富ますにたり、楚の名をへりくだらせれば,王を尊ぶことになります。
今、あなたが天下の盟主を害い、三代(夏・殷・周)と伝わった宝器を奪おうとされるならば、宝器が南へ楚へとくだるにつれ、兵(各国の軍)もともに至るでしょうよ!」
この言葉を聞いて、楚の計略はやめられ、行われませんでした。
三十五年(B.C.280)、秦の
秦はまた
三十六年(B.C.279)
秦の白起が楚を伐ち、
秦は着々と、じわじわと領土を広げていきます 。そして白起に率いられたその領土拡張は、中原にも広がっていくのですが、それはもう少し後のことのようです。