悼武王が亡くなり、昭襄王立つ

文字数 490文字

 (しゅう)赧王(たんおう)の六年(B.C.三〇九)、(しん)は初めて丞相(じょうしょう)を置き,樗里疾(ちょりしつ)を右丞相としました。

 七年(B.C.三〇八)、秦と()(おう)で会しました。

 八年(B.C.三〇七)、秦の武王(ぶおう)甘茂(かんぼう)をして魏と協力して(かん)()たせました。甘茂は六万人の首級(しゅきゅう)を挙げ、ついに韓の宜陽(ぎよう)を秦は攻略しました。韓が和平を秦に求めました。

 秦の悼武王(とうぶおう)は力を使って遊ぶことが大好きでした。そのため、力士(りきし)任鄙(じんひ)烏獲(うかく)孟說(もうえつ)のようなものが、大官(たいかん)となりました。

 この年の八月、悼武王は孟說と(かなえ)()げる遊びをし、血管が切れて、亡くなってしまいました。(胡三省(こさんせい)の注はこれを周の九鼎(ここのつのかなえ)を上げたのではないかと比定(ひてい)しているようですが、詳細はわかりません)

 そのために、孟說の一族を、秦は皆殺しにしました。((ぞく)す、とあります)

 悼武王には子がありませんでした。異母弟の(しょく)が燕に人質となっていましたが、秦の人々は、稷を迎えて擁立(ようりつ)しました。この人を昭襄王(しょうじょうおう)と申しあげます。

 昭襄王の母は羋八子(びはっし)という人でした。(八子というのは位を指します、順位としてはそれほど高くない位の人だったらしく、姓が()です)この人は、楚の(ひと)でした。これを宣太后(せんたいこう)と申し上げます。
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