長平の戦い (周・赧王 五十六年)(承前)

文字数 2,064文字

 (ちょう)王(太后(たいこう))はまさに趙郝(ちょうしゃ)(しん)との和親(わしん)を結ぶことを約束させ、六縣を()こうとしました。

 ここに激しい論戦が展開されます。

 虞卿(ぐけい)が趙王に上奏し申しました。

「秦が王を攻めて、その兵が()きてかえったのでしょうか?王のその力がなおよく進んだために、王の力を尊重して攻めなかったのでしょうか?」

 王は申されました

「秦は余力を(のこ)さなかった、きっと(趙がよく防ぎ)その兵が()んだために帰ったのであろう」

 虞卿は申しました。

「秦がその力でその攻める所(趙)を取ることができなかった、倦んで帰ったのに、王はまた秦が力で取ることのできなかったところを秦に送られる。これは秦を助けて自らを攻めておるのでございます。来年、秦が王を攻めましたら、王にこの損失を救う方法(割譲(かつじょう)する土地)はございませんでしょう。」

 趙王の計がいまだ定まらないでいるうちに、樓緩(ろうかん)が趙に至りました。趙王は樓緩と計略を謀りました。

 樓緩は申しました。

「虞卿はその一を得て、その二を得ておりません。秦と、趙が難を(かま)えて天下はみな(よろ)こんでおります。どうしてでございましょう?(いわ)く『(われ)われは強(秦)に因って弱(趙)に乗じようとしているのだ。』今、趙は(すみや)かに地を()いて和をなし、そして天下を疑わせ(秦の威を借りて皆を手なずけ)、秦の心を(なぐさ)めるにこしたことはございません。そうでなければ、天下はまた秦の怒りにより、趙の(つかれ)に乗じ,趙を瓜分(かぶん)(瓜のように分ける?)するでしょう。趙はまさに亡びようとします。どうして秦とお図りになりませんか!」

 虞卿はこれを聞き、また(まみ)えてもうしました。

「危ういことですなぁ、樓子(ろうし)(樓緩)の計は、これはいよいよ天下を疑わせます(趙につきがたくさせます)。どうして秦の心を慰めれるでしょうや!ただ天下に趙の弱さを示すのみでございます。

 かつ臣の言に賛成しない者は、もともと賛成しないだけではないのでございます。(秦に通じている、といっているか?)秦が六城を王に(もと)めるのに対し、王は六城を(せい)(まいない)し、齊と、秦の、互いの復讎(ふくしゅう)心を深めようとするのです、その秦と齊のぶつかり合いを聴くのは王の(ことば)(おわ)るを待たないでしょう。

そしてこれは王が六城を齊に失って(つぐな)いを秦に取り、そうして天下に趙のできることがあることを示すことになります。王が此の発声(計略・齊に土地を割くこと)をとれば、兵がまだ境を(うかが)わないうちに、臣は秦の重い賂が趙に至り、そして(こう)(婚姻の策)が王に(かえ)(反)るのを見るでしょう。

秦に従って婚姻策をなせば、韓と、魏はそれを聞き、きっと十分に王を重んじるでしょう。これは王が一挙にして三国の親を結んで(魏と韓の)秦への使者の道を()えさせることであります。」

 趙王、じつは趙王の母の太后は申されました。

()ろしい」

 そして虞卿に東に齊王に謁見(えっけん)させ、齊と秦を謀らせたのです。虞卿がまだ返らないうちに、秦の使者がすでに趙におりました。樓緩はこれを聞き,亡去(ぼうきょ)(逃げ去る)しました。趙王は虞卿を封じるに一城をあてました。

 ここに趙王の計を振り返ってみる必要があるかも知れません。長平で、秦と趙がぶつかる前に、使者が秦へと派遣されているのを読者は思い返されるかもしれません。その時、秦への使者の派遣に異議を唱えたのが虞卿であり、派遣された使者が樓昌(ろうしょう)でした。

 樓昌と樓緩、名前が似ていると思われませんか?この二人は、同一人物だった可能性があります。そしてさらに遡ってみるならば、樓緩の名前を、趙人で秦の丞相となった人物として思い返すことができるかもしれません。

 虞卿は太后に徹底して秦への抵抗を説き、齊との同盟を推進していきます。樓緩は秦との同盟を推進し、和議の準備をしているようです。

 虞卿の「齊と結べば、秦が講和を求めてくるだろう」、という策は、全くの空論です。「秦が余力がなくなって撤退した」というのも事実誤認に近いでしょう。虞卿の策の献言に対し、褒賞が城一つというのも注目すべき事実です。秦の使者がやってくると、樓緩が逃げ出したのをみるまえに、樓緩が「趙が(ほろ)びますぞ」と警告していることも知るべきです。六つの城ごときで、上黨(じょうとう)などの大きな土地をごっそり切り取った秦がその攻め手をゆるめたとは、私には到底思えません。この史料は、読むのに注意が必要です。

 これは虞卿という、趙国における齊同盟派が費やした弁論の記録として読むべきでしょう。

 しかしこれが、全くの無駄とか、馬鹿げた話だったかというと、それは別の話になります。

 ひたひたと迫りくる秦に対し自国の独立性を保つために奔走すれば、このような行動をとるしかなかったのではないでしょうか?もし秦に土地を割譲しても、秦は止まったでしょうか?秦は後に、趙を併呑(へいどん)したのは歴史の趨勢(すうせい)ですが、その歴史の流れを変えようとした、虞卿は勇敢な人物だったのかもしれません。私はそのようにも感じます。ただ歴史的な評価は読み手によって変わるものであり、断定を避けます。

 単に、ここでは虞卿の弁舌を鵜呑みにはしないでほしい、そのようにだけ述べるにとどめます。
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