刎頸の交わり

文字数 1,222文字

 藺相如(りんしょうじょ)廉頗(れんぱ)の上位の位に座ることになりました。おさまらないのは廉頗です。

 廉頗は申しました。「我れは趙将となって、攻城野戦の功があった。藺相如は素より賤人(せんじん)であり、ただ口舌(こうぜつ)で位は我れの上に居る、吾れは(はずか)しい、その下位となることを忍べるだろうか!」宣言して申しました。「我れが相如にあったら,必ず辱しめてやる!」

 相如はこれを聞きました、そして廉頗と会おうとしませんでした。朝廷が開くごとに、常に病と称してそれを避け、廉頗と序列を争おうとはしませんでした。外へ出て遠くに廉頗を望み見れば、そのたびごとに車を引いて避け(かく)れました。その舍人(しゃじん)たちはみな恥だとしました。

 相如はさとしました「おまえたちが廉将軍を見るに秦王とどちらが恐ろしい?」「秦王でございます」相如は申しました。「秦王の威厳ですら相如は朝廷にこれを叱咤(しった)し、秦の群臣を辱しめたのだ。相如は老いたりといえども、独り廉将軍を(おそ)れるだろうか!よくよく考えてみよ、吾がこれを想うに、強き秦があえて軍隊で趙に危害を加えない理由は、ただ我々両人がおるからである。今、両虎が共に闘えば、勢いともには生きられないだろう。わたしがそのようなことをしないのは、国家の急にすることを先にして私的な(あだ)を後にしているのだ!」

 廉頗はこれを聞いて、肉袒(にくたん)(はだぬぎ)になって(いばら)を負い門を訪れて謝罪しました、そして遂に刎頸(ふんけい)の交わりを結びました。刎頸の交わりとはここから来た言葉で、お互いに信頼しあい、首をはねられても後悔しない、そういう交わりだといわれています。

 このような家臣がいたから、趙は強かったのですね。

 ただいくつか指摘を。

 藺相如は宦者令の舎人、と『史記』には出てきています。『宦』はカンで官僚のこともいいますが、もし宦官の意味にとった場合、宦官の長官の舎人(家来)は宦官では……。いえ、これは推測にすぎません。

 あとこの藺相如の物語では、秦は一方的にやり込められる立場に立っています。強い秦がここまでへこまされるから、藺相如が引き立つわけです。しかしもし秦王が不興で、藺相如を斬殺していたら、この物語は生まれなかったでしょう。秦王の振る舞いにも注目していただければと思います。

 正式な朝廷の儀式が定められるのはもっと後のことなのかもしれませんが、古くから国々の交流の間では外交儀礼が決められており、『論語』の中でもそのルールは決められています。璧ではなく『圭』と呼ばれる宝玉のやり取りや、お互いの意思を歌謡で伝え合うことは古くから行われる儀礼で、『春秋左氏伝』などにも詳しく出てきます。秦王と、趙王が歌をお互いに(うた)いあって交換しても、通常は普通のことであったと考えられます。(その際、どの歌を歌ったかなどが重要なのですが、ここではそれは言及を控えます)

 興味のある方は、『論語』や『春秋左氏伝』、もっと詳しく知りたいのならば、『詩経』(毛詩)などを調べていただければ幸いです。

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