荘襄王の時代(下)ー安陵君…、英雄・信陵君死すー
文字数 2,558文字
安陵(魏の土地)の人、縮高の子が秦に仕え、秦はその人に管(秦の土地か)を守らせました。信陵君はこれを攻めて下せなかったので、人をして安陵君(安陵の君)に云わせて申しました
「君よ、どうか縮高を遣わしてくれ、吾はまさに仕えては縮高を五大夫とし、使いとしては執節尉としよう。」
信陵君は安陵君に縮高を派遣させ、安陵君に君としてその民をさとさせ、縮高に父としてその子をさとさせようとしました。軍尉の節を執る者(執節尉)としようとさせたとあります。
安陵君は申しました。
「安陵は小国でございます、必ずしもその民をしいて使いさせることはできません。使者自ら往かれて縮高に請われよ。」
吏をして使者を導いて縮高の所へ至らせました。吏をして信陵君の命を致させ(伝えさせ)ましたが、縮高は申しました。
「君は縮高を幸いしてくださいますが、まさに縮高をして管を攻めさせようとなされば、それは父が子の守るものを攻めることになり、人の笑いとなるでしょう。臣を見て子が下れば、これは子が主に倍くこととなります。父が教えて子が倍く、これは君の喜ばれるところではございませんでしょう。あえて再拜して辞(断らせて)させていただきます!」
使者はそこで信陵君に報告しました。
信陵君は大いに怒りました。使いを派遣して安陵君の所へゆかせ、申させました。
「安陵の地は、またなお魏である。(安陵は本、魏の土地で、魏の襄王がその弟を封じて国となっていた)今、吾は管を攻めて下せないが、そうなれば秦の兵は我ら(魏)に及ぶのだ、社稷(国の祭の根本)はきっと危いだろう。願わくば君よ、生きて縮高を束ねて(拘束して)かれを致せ(送れ)。もし君が致さないならば、無忌(信陵君)はまさに十萬の師(軍)を発し、そして安陵の城下にいたるであろう。」
十万の兵、というのは脅しだったのでしょうか。ともかく、安陵君は申しました。
「吾は先君、成侯が詔を襄王に受け、それからこの城を守っております。手ずから太府(図書館)の憲(法文)を授かりました。(太府とは、魏国の図籍を蔵する府のこと。憲は、法をさす、とあります。)
憲の上篇に申しております。『臣が君を弑し、子が父を弑すことは、常法においては赦さず。国が大赦しても、城を降すもの、子の亡げるものは、大赦に与るを得ない。』(ここやや、意味取れず)と。
今、縮高が大きな位を辞してそして父子の義を全うしようとしておりますに、君がおっしゃられるのは、『必ず生きてこれを致せ』と、これは我をして襄王の詔に負かせて太府の憲(文)を廃させるもので、わたしは死するといえども、終わりまであえてそのようなことは行いませんぞ!」と。
縮高はこれを聞いて申しました。
「信陵君の人となりは、悍猛にして自らを用いる(自らを頼む)、此の辞は必ず反えって国の禍いとなる。吾はすでに己を全うした、人臣の義に違うことなく、どうして吾君をして魏の患いとなさしめるべきか!」
そこで使者の舍にゆき、頸を刎ねて死にました。
信陵君はこれを聞き、縞素(喪服)して舍を避け、使者をつかわして安陵君に謝って申しました。
「無忌は小人である、思慮に困り、言を君に失う、請うならくは再拜して罪を辞せん!」と。
ただ胡三省の注に加えています。
「安陵君は、封を魏國に受ける者であり、縮高は、廛(俸給か)を安陵に受ける者である。
縮高の子が魏の民とならず、秦に逃帰して秦の臣となり、秦のために管を守った。
時に秦が兵を魏に加え、大梁(魏の首都)を取ろうとした、安陵の党は魏が宗国(母国)であることを念わず、縮高の党はその先が魏の民であることを念わず、魏の危機を見て、どうしてあえて坐視して救わなかったのだろう。
公子・無忌(信陵君)は魏のために師(軍隊)を挙げてそして危機に臨み、安陵君はそこで太府の憲(自国の憲法)を陳べた、縮高はそこで大臣の義を陳べてそしてその要請を拒んだ、死を避けず、反えってそれを求めたといっても、その死を得たというべきだろうか!(その主張が妥当だとどうしていえよう!)
無忌はこのことのために縞素(喪服)して舍を避け安陵に謝した、吾もまたいまだその何所に處るかをしらず(どこにおればよかったのだろう)。」
ここの文、もう少し詳しく知りたかったので『史記』にあたったのですが、『史記』や注には出典はないのかもしれません。『戦国策』には記述があり、『太府の憲』のことや、君臣の関係、父子の関係など、触れられてます。ただ一部しっかり意味が取れていません。しかし非常に興味深い文です。注は国が攻められた時になぜ、といっていますが、私も何が正しいのかはわからないというのが、正直な気持ちです。
さて荘襄王は人に萬金をもたせて魏に行かせ、信陵君と王を反間(仲を裂くこと)させました。求めて晉鄙(邯鄲の包囲戦において信陵君に殺された将軍)の客を得て、魏王に説かせて申させました。
「公子は亡げて外に在ること十年で、今、また将となり、諸侯がみな属しております。天下の徒は信陵君を聞いて、魏王を聞いておりません。」
荘襄王はまたしばしば人に信陵君を賀(祝賀)させました。
「得て魏王となることはまだであるか。(いつごろ魏王になられるのですか?ということ)」
魏王は日びその毀(讒言)を聞き、信ずることができなくなりました。そして別の人に信陵君に代わって兵を将いさせました。
信陵君は自ら再び毀(讒言)があって廃されたことを知り、すぐさま病を謝して朝せず、日夜、酒色もて自ら娯しみ(酒におぼれたということ)、およそ四歲にして卒しました。
韓王が往きて弔し、信陵君の子はこれを光栄とし、そして子順(孔子の子孫、魏に仕えていた)に告げました。
子順は申しました。
「必ずこれを辞するに礼をもってせよ!『隣国の君、弔せば、君(魏君)これが主となる。』とあります。今、君(魏君)は子に(韓王の弔問を受けるよう)命じていない、だから子も韓君を受けるところはないのです」
信陵君の子はこの韓王の弔問を辞しました。
信陵君は英雄で、まさに信義を愛した人とも申せましょうか。死んだ後も、王公が弔問に訪れたことからその影響力の大きさがわかります。
秦を何度も破った信陵君は、ここにその生涯を閉じました。
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