偉大なる白起(上)ー(上)は年表のみ-

文字数 2,940文字

 ここで少し閑話休題、というものを挿ませていただきたいと思います。『資治通鑑』ではここで巻四が終わり、次にいよいよ巻五へと入っていきます。いい区切りなのです。

 これまで第3章に入って、ほとんど地理の説明をしていませんでした。一つ一つの位置を説明するのは煩雑になりますので、その都度の説明を控えていました。ここで、これまで控えてきた地理の状況の把握を挿んでおきたいと思います。

 時代的には第3章は秦の昭王(しょうおう)の即位あたりから、ここまで書いてきたわけですが、この時代、特に白起(はくき)が切り取ってきた秦の版図(はんと)を振り返ってみるのも悪くないと思うのです。

『資治通鑑』の巻としては三巻の中頃から、四巻の終わりまで、B.C.三〇八から、B.C.二七三までのおよそ三十五年間を第三章ではここまで扱っていますが、その当時の戦闘や、土地の動きを把握しておきます。

 ざっとですが、流れを追ってみましょう。年数は周の赧王(たんおう)の即位何年かになります。

 七年(癸丑、B.C.三〇八)
 秋,甘茂(かんぼう)庶長封(しょちょうほう)が軍隊を率いて宜陽(ぎよう)を伐ちました。

 八年(甲寅、B.C.三〇七)
 秦は宜陽を抜きました。
 秦の昭襄王(しょうじょうおう)が立ちました。

 趙の武靈王(ぶれいおう)が北に中山(ちゅうざん)の地を切り取り、房子(ぼうし)(だい)に至り、北は無窮(むきゅう)に至りました。西は黄河に至り、黄華山(こうかさん)の上に登りました。

 九年(乙卯、B.C.三〇六)
 秦の昭王は向壽(しょうじゅ)に宜陽を平らげさせ、武遂(ぶすい)を韓に帰しました。秦は、魏の蒲阪(ほはん)()ちました

 趙王は中山の地を切り取り、寧葭(ねいか)に至り、西は胡地(こち)を略し、榆中(ゆちゅう)に至りました。

 十年(丙辰、B.C.三〇五)
 趙王が中山を伐ち、丹丘(たんきゅう)爽陽(そうよう)(こう)(さい)を取り、また(かく)石邑(せきゆう)封龍(ほうりょう)東垣(とうえん)を取りました。中山は四邑を献じて和しました。

 十一年(丁巳、B.C.三〇四)
 秦王は、楚王と黃棘(こうきょく)(ちか)いました。秦は楚に上庸(じょうよう)を戻しました。

 十二年(戊午、B.C.三〇三)
 秦は魏の蒲阪、晉陽(しんよう)封陵(ほうりょう)を取り、また韓の武遂を取りました。

 十三年(己未、B.C.三〇二)
 秦王、魏王、韓の太子(えい)臨晉(りんしん)に会し、韓の太子が咸陽(かんよう)に至って帰り、秦は魏に蒲阪(ほはん)を戻しました。

 十四年(庚申、B.C.三〇一)
 秦の人が韓の(じょう)を取りました。

 (しょく)(しゅ)()が秦に(そむ)き、秦の司馬錯(しばさく)が往って(ちゅう)しました。

 秦の庶長奐(しょちょうかん)が韓、魏、齊の兵と会して楚を伐ち、ついに重丘(ちょうきゅう)を取りました。

 趙王が中山を伐ち、中山の君が齊に(はし)りました(逃げ出しました)。

 十五年(辛酉、B.C.三〇〇)
 秦の華陽君(かようくん)が楚を伐ち,大いに楚の軍隊を破り、楚の襄城(じょうじょう)を取りました。

 十六年(壬戌、B.C.二九九)
 秦の人は楚を伐ち、八城を取りました。

 十七年(癸亥、B.C.二九八)
 秦王は軍隊を出し、武關(ぶかん)より出て楚を撃ち、十六城を取りました。

 十九年(乙丑、B.C.二九六)
 齊、韓、魏、趙、宋は力を同じくして秦を撃ち、鹽氏(えんし)に至って還りました。秦は韓に武遂、魏に封陵を与えて和しました。

 趙の主父は新地(しんち)に行き、ついに代西へと出ました。

 二十年(丙寅、B.C.二九五)
 秦尉(さく)が魏の襄城を伐ちました。

 趙の主父(しゅほ)が齊、燕と共に中山を滅ぼしました。

 二十一年(丁卯、B.C.二九四)
 秦が魏の軍隊を(かい)に破りました。

 二十二年(戊辰、B.C.二九三)
 韓の公孫喜(こうそんき)、魏人が秦を伐ちました。穰侯(じょうこう)左更(さこう)白起(はくき)を秦王に(すす)め向壽に代わって兵をひきいさせました。魏の軍、韓の軍を伊闕(いけつ)に破り、斬首した数、二十四万級、公孫喜を(とりこ)にし、五城を抜きました。秦王は白起を國尉(こくい)としました。

 二十四年(庚午、B.C.二九一)
 秦が韓を伐ち、(えん)を抜きました。

 二十五年(辛未、B.C.二九〇)
 魏は河東(かとう)の地、四百里を入れ、韓は武遂の地、二百里を秦に入れました。

 二十六年(壬申、B.C.二八九)
 秦の大良造(だいりょうぞう)・白起、客卿(かくけい)・錯、魏を伐ち、()に至り、城大小六十一を取りました。

 二十七年(癸酉、B.C.二八八)
 秦は趙を攻め、杜陽(とよう)を抜きました。

 二十八年(甲戌,B.C.二八七)
 秦は趙を攻め、新垣(しんえん)曲陽(きょくよう)を抜きました。

 二十九年(乙亥、B.C.二八六)
 秦の司馬錯は魏の河內(かだい)を撃ちました。魏は安邑(あんゆう)を献じて和を結びました。秦は安邑の人を出して魏に帰らせました。

 秦が韓の軍を夏山(かざん)に破りました。

 宋が(とう)を滅ぼし、(せつ)を伐ち、東に齊を破り、五城を取りました、南に楚を破り、地三百里を取りました。西に魏軍を破り、齊、魏と敵国となりました。齊の湣王(びんおう)が兵を起こして宋を伐ち、宋は亡びました。

 三十年(丙子、B.C.二八五)
 秦の蒙武(もうぶ)が齊を撃ち,九城を抜きました。

 三十一年(丁丑、B.C.二八四)
 燕王がことごとく兵を起こし、樂毅(がくき)を上将軍としました。秦尉の斯離(しり)が秦軍、三晉の軍とこれに合流しました。そして齊を伐ちました。齊の湣王(びんおう)は国中のありったけの兵を集め、濟西(せいせい)の地に防戦しましたが、齊軍は大敗しました。魏軍は宋の地を取り、趙軍は河間(かかん)を取りました。楽毅は自ら軍を率い長躯して追撃しました。六か月の間に、齊の七十餘城を下し、皆を郡縣としました。

 三十二年(戊寅、B.C.二八三)
 秦、趙が穰に会盟しました。秦は魏の安城(あんじょう)を抜きました。秦軍は大梁(たいりょう)まで至って還りました。

 三十三年(己卯、B.C.二八二)
 秦は趙を伐ち、兩城(りょうじょう)(二つの城?)を抜きました。

 三十四年(庚辰、B.C.二八一)
 秦は趙を伐ち、石城(せきじょう)を抜きました。

 三十五年(辛巳、B.C.二八〇)
 秦の白起が趙軍を破り、斬首した数、二万、代の光狼城(こうろうじょう)を取りました。また司馬錯に隴西(ろうせい)の兵を発して、蜀から楚の黔中(けんちゅう)を攻め、これを抜きました。楚は漢北(かんほく)上庸(じょうよう)の地を献じました。

 三十六年(壬午、B.C.二七九)
 秦の白起が楚を伐ち、(えん)(とう)西陵(せいりょう)を取りました。

 この年に、田單(でんたん)即墨(そくぼく)により、齊の土地を楽毅から取り返す話があります。

 三十七年(癸未、B.C.二七八)
 秦の大良造(だいりょうぞう)の白起が楚を伐ち、(えい)を抜き、夷陵(いりょう)を焼きました。楚の襄王(じょうおう)の兵は散じ、ついにまたは戦わず、東北に都を(ちん)(うつ)しました。秦は郢を南郡(なんぐん)とし、白起を封じて武安君(ぶあんくん)としました。

 三十八年(甲申,B.C.二七七)
 秦の武安君は()黔中(けんちゅう)を定め、初めて黔中郡を置きました。

 三十九年(乙酉、B.C.二七六)
 秦の武安君が魏を伐ち、両城を抜きました。

 楚王が東の地の兵を集め、十余万を集めて、また西に江南(こうなん)の十五邑を取りました。

 四十年(丙戌、B.C.二七五)
 秦の相國の穰侯が魏を伐ちました。韓は暴鳶(ぼうえん)に魏を救わせましたが、穰侯は大いにこれを破りました、斬首すること四万、暴鳶は開封(かいほう)へと走りました。魏は八城を()れて和を結びました。穰侯はまた魏を伐ち、芒卯(ぼうぼう)を走らせ、北宅(ほくたく)に入りました。魏の人は(おん)を割いて和を結びました。

 四十一年(丁亥、B.C.二七四)
 魏はまた齊と合従しました。秦の穰侯は魏を伐ち、四城を抜き、斬首した数は四万でした。

 四十二年(戊子、B.C.二七三)
 趙人、魏人が韓の華陽(かよう)を伐ちました。韓の陳筮(ちんぜい)の機転で秦が出兵しました。魏王は南陽(なんよう)()いて和を結びました。

 ここまでになりますが、一旦、区切りを改め、総括は次話にまわさせていただきたいと思います。
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