荀子と臨武君の対話、終わる
文字数 1,476文字
荀子の弁はまだ続きます。
臨武君は申しました。
「わかりました。王者の軍制について問いたい、お聞かせください。」
荀卿(荀子)は申しました。
「将は鼓に死し、御者は轡に死し、百吏は職に死し、上大夫は行列に死す。鼓の声を聞いて進み、金(鐘)の声を聞いて退く。命に順うことを上とし、功が有ることをその次とする。
令が「進まない」であるのに進むのであれば、令が「退かない」であるのに退くようなもので、その罪はどれも均しい。老弱を殺さず、禾稼(収穫物)を猟(強奪か)せず、降服する者は禽にせず、たたかう者は赦さず、奔命(逃げ出すか)する者は獲ない。
およそ『誅』とは、その百姓を誅するのではないのである。その百姓を乱す者を誅するのだ。百姓に勝手にその賊を捍ぐものがあれば、これもまた賊である(百姓を乱すから)。そこでその刃に順う者は生き、刃にさからう者は死し、奔命した者は貢をいずれ贈ってくるだろう。
(殷の末裔の)微子は封(諸侯となること)を宋に開いたが、その前に(殷周革命の経緯からか、つまり殷の紂王を周の武王が討ったわけだから、殷の後継者である微子を)周の左師(裁判官)の曹觸龍は軍にこれを断じた。
商(殷)の服民(もともとの民)の、生を養う方法は周人と異なることはなく、だから近くの者は謳歌してこのことを楽しみ、遠くにいる者はことごとく蹶起して微子に趨いた。幽閒・僻陋の国には、このことに趨き使いして安樂を感じないものはなく、四海の內は一家のようで、通達の屬に服従しないものはなかった。これをこそ人師というのである。
詩に申している、『自西自東、自南自北、無思不服。(西よりし東よりし、南よりし北よりし、思いて服さざるなし)』(『詩経』大雅・文王有聲)と。これのことである。
王者には誅はあって戦いはなく、城の守る者は攻めず、兵の格うものは撃たない、敵の上下が相喜べばそこでこれを慶賀し、城を屠らず、軍を潜まさず、衆を留めず、師は時(期間)を越えないのである。一方、乱者はその政を楽ねがい(狙い)、その上にやすんぜず、その兵の至ることを欲するのである。」
臨武君は「わかりました」と申しました。
陳囂も荀卿に問うてもうしました(弟子の一人か)。
「先生の兵を議されるには、常に仁義を本とされます。仁者は人を愛し、義者は理に循います。そうであるならばまた何のために兵をおこなうのです?およそ兵をもってことを起こす者は、争奪をなしております。」
荀卿はもうしました。
「汝の知る所ではない。
彼の仁者は人を愛し、人を愛せば、それゆえに悪人はそれを害おうとする。義者は理に循い、理に循えば、そのために悪人はそれを乱そうとするのだ。
かの兵という者は、暴を禁じ害を除く所以(手段)で、爭奪ではないのだよ。」
さてここに荀子と臨武君の対話、最後に少し弟子との対話もあったようですが、を小説のようにまとめてみました。自分は荀子は読んだことがなく、意訳しましたが意味が取れていないことも多いと思います。
ここに荀子と臨武君の対話を置いたのは明らかに『通鑑』の筆者の意図があるのではないかと思います。おそらく戦争や、軍事というものの本質をえぐり、そして秦が兵力によって国を拡大していることの序章にしたのではないでしょうか。
その論の内容に分け入るほど自分には知識がありませんが、みなさんで考えていただければ幸いです。
ただ戦いとは争奪ではない、戦いとは国を乱すものを治めることなのだ、という考えは新鮮であったと伝えておきます。
ではいよいよ秦の全国統一へと、話は進んでいきます。
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