李牧、死す、そして、荊軻。

文字数 1,739文字

 秦王・政の十六年(B.C.二三一)、韓が南陽(なんよう)の地を献じました。当時、秦、楚、韓が南陽(なんよう)と呼ばれる地域を分けて所有していましたが、それを献じたと注にあります。九月、秦は卒を発して(徴発したか)、地を韓に受けました。

 同じ年、魏の人が地を献じました。何かがあったのでしょう。

 (だい)にて地が震えました。地震でしょう。樂徐(らくじょ)より以西で、北は平陰(へいいん)に至りました、台や(おく)牆垣(しょうえん)(垣や壁でしょうか)の太半が壊れ、地が東西百三十步にわたって()けました。

 十七年(B.C.二三〇)、秦の内史(だいし)の勝が韓を滅ぼしました。注によると、内史(だいし)とは秦の官のことで、漢における三輔(さんぽ)と呼ばれる地を治めていた官であると注にあります。秦が置いた地方官の一人だったようです。韓王の安を虜にし、その地に穎川郡(えいせんぐん)を置きました。

 韓はここに至って(ほろ)びました。

 この年、華陽太后(かようたいこう)(こう)じました。

 趙が大いに飢えました。地震があったあとです、関係があったのかもしれません。

 衛の元君(げんくん)が薨じ、子の(かく)が立ちました。

 十八年(B.C.二二九)、王翦(おうせん)上地(じょうち)の兵を(ひき)いて井陘(せいけい)を下りました。楊端和(ようたんわ)河内(かだい)の兵を(ひき)いて共に趙を()ちました。趙は李牧(りぼく)司馬尚(しばしょう)がこれを防禦しました。

 秦の人は趙王の嬖臣(へいしん)(寵臣)・郭開(かくかい)に金をたくさん与え、李牧(りぼく)司馬尚(しばしょう)について讒言(ざんげん)して、彼らが謀反しようとしていると言わせました。

 趙王は趙蔥(ちょうそう)と齊の将・顏聚(がんしゅ)をして彼らに代わらせました。

李牧(りぼく)は命を受けませんでした。趙人は彼らを捕えて、李牧を殺し、司馬尚(しばしょう)を廃しました。

ここに秦を何度も撃退した趙の名将、武安君・李牧は殺されることになりました。

 十九年(B.C.二二八)、王翦(おうせん)は趙軍を()ち、大いに趙軍を破り、趙蔥(ちょうそう)を殺しました。顏聚(がんしゅ)()げ、遂に邯鄲(かんたん)()ち、趙王を(とりこ)にして遷しました。趙はここに亡びました。

 秦王は趙の首都・邯鄲にゆき、(もと)、母家と仇怨(きゅうおん)があったものは皆それらを殺しました。(かえ)るには、太原(たいげん)より、上郡(じょうぐん)をとおって帰りました。

 太后(たいこう)(こう)じました。

 王翦(おうせん)中山(ちゅうざん)に駐屯し、そして燕に臨みました。

 趙の公子・()(元の嫡子であって、廃嫡されていた公子)がその宗族、数百人を(ひき)いて(率いて)(だい)へと(はし)り、自ら立って代王となりました。趙が亡びるにあたり、趙の大夫は徐々に代に帰服し、代は燕と兵を合わせ、上谷(じょうこく)に軍を配置しました。

 楚の幽王(ゆうおう)が薨じ、国人はその弟・(せき)を立てました。三月、郝の庶兄・負芻(ふすう)が郝を殺し、自ら立ちました。

 魏の景閔王(けいびんおう)が薨じ、子の()が立ちました。

 ここで、話は荊軻(けいか)の話になります。

 燕の太子・(たん)は秦王を(うら)んでおり(礼せられなかったためといいます)、王に報復しようとして、そこでその()(守り役)である鞠武(きくぶ)に問いました。鞠武(きくぶ)は西は三晉(韓・魏・趙)と約し、南は齊、楚と連なり、北は匈奴(きょうど)(よしみ)を交流してそして秦を図ることを請いました。

 太子はおっしゃられました。

太傅(たいふ)(傅)の計は、日をむなしくすることいよいよ久しく、人心をして昏然(こんぜん)とさせる(身もだえさせる)、恐らくは()つことができないだろう。」と。

 頃之(このころ)、将軍・樊於期(はんおき)が罪を得て、()げて燕へ()きました。太子は受けて樊於期(はんおき)をやどしました。

 鞠武(きくぶ)は諫めて申し上げました

「それ秦王の暴をもってして(秦王は暴虐であるのに)怒りを燕に積まさせれば、(燕の)心を寒くさせるにたります、またさらに秦王が樊将軍の在る所をきかれましては!これは肉を(ゆだ)ねて(預かって)、餓虎(がこ)(けい)(通り道)に当たるというものにございます。願わくは太子よ、()く樊将軍を(つか)わして匈奴(きょうど)に入れなさい!」

 太子は答えられました。

「樊將軍は天下に窮困し、身を丹に帰せられた、これは固く(固よりか?)丹の命を()えるの時である(命を賭して守らねばならぬ時である)。願わくは更にこのことを(はか)れ!」

 鞠武(きくぶ)は申しあげました。

「それ行いは(あやう)いのにもって安楽を求むるのは、禍をなしてもって福を求めようとするもので、計淺くして怨みは深く、一人の後の交りと連結して(つながって)、国家の大害を(こころ)みず、いわゆる怨みをもとで(資)にして禍を助くる者にございます。」と。

 太子は聴かれませんでした。

 太子は衛人の荊軻(けいか)の賢を聞き、辞をひくく、礼を厚くして荊軻(けいか)と見えることを請いました。

 そして荊軻(けいか)に言って申されました。
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