馬は貴重品だった

文字数 767文字

 ここで少しだけ『資治通鑑』にはない補足を入れておきます。なぜならば、ここで(ちょう)胡服(こふく)騎射(きしゃ)を軍隊に導入したことは、一定の意味を持っていたからです。

 もともと中原(ちゅうげん)の国々の戦いは、四頭引きの戦車(せんしゃ)を中心とした戦車戦で、『詩経(しきょう)』の秦風(しんふう)などにはその戦車の描写がなされ、清朝(しんちょう)の学者の考証(こうしょう)の対象となっているとも聞きます。『論語(ろんご)』などによると、服装も当時は日常着ているものは、(しょう)(スカート)などが中心であったのではないかと思います。胡服、つまり騎馬にのるためのようなぴったりした衣服は、一般的ではなかったのではないでしょうか。

 しかしここに、趙の武靈王(ぶれいおう)という人物によって、これまでの戦車戦術に対し、騎馬への直接乗馬や騎射による、騎兵戦術へと戦術が一部転換したことが見られます。

 春秋(しゅんじゅう)時代の馬は非常に貴重(きちょう)な生き物でした。馬を何匹持っているか、ということが財産の基準として『論語』でも何回か出てきていたと思います。だから身分の高く、財産のある人物しか四頭も馬を(そろ)える戦車には乗ることはできなかったのです。この戦国時代のことについて、私は専家(せんか)ではありませんので、深く言及することは避けます。それでも、馬に乗ることができるのは身分の高い人物のみだったでしょうし、騎馬の数が春秋時代と同様に、富や勢力の象徴や実力であり、騎馬の機動力が勝敗を決したことも容易に想像できます。

 前章で「(だい)」という地方、「無窮(むきゅう)」という地、つまり草原地帯を趙が手に入れたわけですが、これは軍事的には非常に重要なことだったのではないでしょうか。

 中国の中原と呼ばれる地域は基本的に緩やかに斜めか、平らな地形と、湿地と、入り組んだ河が広がっているように、私は想像しています。(もちろんわが国にないような大きな山脈もあります。ただここでは概念的(がいねんてき)になりすぎるかもしれませんが、それを(はぶ)きます)
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