楚の懷王、秦に幽閉される

文字数 1,180文字

 周の赧王(たんおう)の十六年(B.C.229)。

 (しん)()()って八城を取りました。秦王は楚王に(しょ)(つか)わしていいました

「始め寡人(わたし)と王とは盟約(めいやく)を結んで兄弟のようになった。黄棘(こうきょく)(ちか)い、太子(たいし)は我が国に入って人質となり、我が国には(よろこび)がやってきた。そうであるのに、太子は寡人(わたし)の重臣をあざむいて殺し、謝まらずして()げ去った。寡人(わたし)は誠に怒りにたえなかった。だから兵をつかわして君王(あなた)の国境を(おか)させたのだ。(重丘(ちょうきゅう)に戦い、襄城(じょうじょう)を取ったことを指すといいます)

 今、私は聞いた、君王(あなた)は太子を人質として(せい)につかわして和平を求めたという。寡人(わたし)の国は楚と境を接しており、婚姻(こんいん)を交わして互いに親しんできた。そうであるのに、今、秦と楚は交歓(こうかん)せず、そしてそのために諸侯に対して威令(いれい)を示すことができなくなっている。寡人(わたし)は願わくば君王(あなた)武關(ぶかん)に会し、顔を突き合わせてお互いに約束し、(ちかい)を結んで別れようではございませんか、それこそが寡人(わたし)の願いであります」

 こういう文章を、手紙で送ったのです。なお付け加えると、この時代、秦の昭襄王(しょうじょうおう)は若く、宣太后(せんたいこう)摂政(せっせい)?して、(ちょう)人の樓緩(ろうかん)丞相(じょうしょう)となっていたとおもわれます。秦の内部で激しい権力抗争が行われていたことも押さえておいたほうがいいかもしれません。これは甘茂(かんぼう)のことを書いたときに触れたつもりです。

 なおこの文のうち、秦と楚が正式な婚姻関係を結び親しい間柄であった、と主張している点については、胡三省が異議を唱えています、そんなことはなかった、と。ただ、のち、秦と楚は婚姻を交わし、親しい関係になることは確かで、時代がごちゃまぜになっている印象があります。まあ、それは()いておきましょう。

 楚王はこの書を受け取って(ふる)え上がりました、そういうように『通鑑(つがん)』は書いています(まあ、正確には(うれ)うとあるのですが)。

 ()こうとして(あざむ)かれるのを恐れ,往かざらんとして秦がますます怒るのを恐れたのです。

 昭睢(しょうすい)という臣が言いました。「行くべきではございません、兵を出して自ら守ればよいではございませんか!秦は、虎や狼のような国にございます、諸侯を併呑(へいどん)しようという思いを持っております、信ずべきではございません!」

 楚王・懷王(かいおう)の子、(らん)が王に行くことを(すす)めたので、王はそこで秦の国に入国しました。(この一文を見落とさないでください)

 秦王は一人の将軍を(いつわ)って秦王とし、兵を武關(ぶかん)に伏せ、楚王が到着すると(かん)を閉じて王をさらって、王とともに西行し、咸陽(かんよう)に至り、章台(しょうだい)参朝(さんちょう)させ、藩臣(はんしん)のような扱い(礼)をとり、()黔中(けんちゅう)の郡を()くことを強要しました。

 楚王は(ちか)おうとしましたが、秦王は()ず地を得ようとしました。楚王は(いか)りました。

「秦は(わたし)(いつわ)った、しかもさらには(わたし)を強要して土地を割けというのか!」そして再びは盟おうとすることはなかったのです。秦人はそこで王を留めました。

 これが有名な、懷王の幽閉事件であります。
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