王翦、楚を攻略す
文字数 1,479文字
さて、秦は楚を攻めることになりました。
李信 は平輿 を攻め、蒙恬 は寝 を攻め、大いに楚軍を破りました。
李信はまた鄢 ・郢 (鄢陵か)を攻め、これらの都市を破りました。
ここに兵を引いて西へ向かい、蒙恬 と城父 に会 しました。西へ向かう、ということは、秦方向に退却したことになります。何かあったのでしょうか。
楚の人はそこでこの動きに隨 い、三日三夜、休んだり舍 ったりせず、(秦軍を追撃し、)大いに李信 を敗り、二将軍の両壁(二つの砦)に入り、七人の都尉 を殺しました。
李信 は奔走し秦へ還りました。
秦王はこのことを聞き、大いに怒り、自ら頻陽 に至って王翦 に謝って申されました。
「寡人 (わたし)は将軍の謀りごとを用いず、李信 は果して秦軍を辱 しめた。将軍は病いといえども、ひとり寡人 を棄てて忍べるのか!」
王翦 は謝りて申されました。
「病でありますので将たることができません」
秦王はもうされました。
「已 みなん、また言うことなかれ!(やめるのだ、また言うでない)」
王翦 はもうしあげました。
「必ず已 むをえずして臣を用うるならば、六十萬人でなければ不可にございます!」
秦王は申されました。
「そうであるならば将軍の計をゆるすだけだ」
ここに王翦 は六十萬人を将 いて楚を伐ちました。王は送って霸上 に至りました。
王翦 は美なる田宅 (子孫のための財産)を請うことがはなはだたくさん(たびたび)でした。
王はおっしゃいました。
「将軍よ、行かれよ、どうして貧を憂 えられるのか!」
王翦 はもうしあげました。
「大王の将となり、功が有りましたが、終いに封侯 たるを得ませんでした。そこで大王の臣に向かうにおよんで、田宅を請うて子孫の業としたいだけにございます」
王は大いに笑れました。王翦 がすでに行き、關 (武關か?)に至りましたが、使者を還 してしつこく善田を請わせること五回になりました。
あるものが申しました。
「将軍の貸与 を乞うことまた已甚 からんや!(度を過ぎませんか!)」
王翦 は答えました。
「然 ず(そうではない)。王は中 は粗 にして人を信じられない。今、国中の甲士を空しくして(空にして)もっぱら我に委ねられた、我れが田宅を多くし、子孫の業を為すを請うてそして自らを堅 くしなければ、顧 うに王をして坐して我を疑わしめるだろう。」
二十三年(B.C.二二四)になりました。
王翦は陳 以南を取って平輿 に至りました。楚の人は王翦 が軍を益して来たことを聞き、すぐさま国中の兵をつくしてそして秦軍を禦 ぎましたが、王翦 は壁(砦)を堅くしてこれと戦いませんでした。
楚の人はしばしば戦いを挑みましたが、ついに出でませんでした。
王翦 は日び士を休ませ洗沐 させ、そして善く飲食させて、兵を撫循 しました。親しく士卒と食を同じくしました。
このようなことが久しくつづいて、王翦 は人に問わさせました。
「軍中は戲 むれているか?」
部下は答えて申し上げました。
「まさに石を投げ、超距 (跳躍)しております。」
王翦 は申しました。
「用いるべきであるな!」
楚はすでに戦うことができず、すぐさま引きあげて東に向かいました。
王翦 は楚軍を追い、壮士 に楚軍を撃たせ、大いに楚の師 をやぶり、蘄 の南に至り、楚の将軍・項燕 を殺し、楚の師 を遂に敗走させました。
王翦 はそこで勝ちに乗じて城邑 を略定しました。
楚の項燕 と言う人は、一度は秦軍を撃退し、王翦 の軍とも互角の勝負をしてよく楚を支えたようですが、ここに散っています。
二十四年(B.C.二二三)
王翦 、蒙武 が楚王・負芻 を虜 にし、その地に楚郡 を置きました。ここに、楚に王はいなくなりました。
李信はまた
ここに兵を引いて西へ向かい、
楚の人はそこでこの動きに
秦王はこのことを聞き、大いに怒り、自ら
「
「病でありますので将たることができません」
秦王はもうされました。
「
「必ず
秦王は申されました。
「そうであるならば将軍の計をゆるすだけだ」
ここに
王はおっしゃいました。
「将軍よ、行かれよ、どうして貧を
「大王の将となり、功が有りましたが、終いに
王は大いに笑れました。
あるものが申しました。
「将軍の
「
二十三年(B.C.二二四)になりました。
王翦は
楚の人はしばしば戦いを挑みましたが、ついに出でませんでした。
このようなことが久しくつづいて、
「軍中は
部下は答えて申し上げました。
「まさに石を投げ、
「用いるべきであるな!」
楚はすでに戦うことができず、すぐさま引きあげて東に向かいました。
楚の
二十四年(B.C.二二三)