孝文王の時代、あと魯仲連のこと

文字数 1,432文字

 時代は、孝文王(こうぶんおう)の時代となりました。

 元年(B.C.二五〇)

 冬、十月、己亥、王が即位しました。三日にして薨じました。子楚(しそ)が立ちました。これが莊襄王(そうじょうおう)となります。華陽夫人(かようふじん)を尊んで華陽太后(かようたいこう)とし、夏姬(かき)夏太后(かたいこう)としました。

 華陽夫人は子楚をあとつぎにしてくれた人、夏姫は生母だともいわれます。そのため二人が太后となったわけです。

 燕將が齊の聊城(りょうじょう)を攻め、これを抜きました。

 あるものがこのことを燕王に讒言(ざんげん)しました。そのため燕將は聊城を保ち、あえて帰りませんでした。齊の田單(でんたん)がこれを攻め、歲余にして下りませんでした。魯仲連(ろちゅうれん)がそこで(ふみ)をつくり、これをしばって矢で城中に射ました。

 燕將にとどけ、そのために利害を()べました。

 魯仲連の手紙は以下のようでした。

(あなた)のために計る者がもうします、燕にかえらなければつまり齊にかえる(帰服する)ことになります。今、ひとり孤城を守り、齊兵は日び()して燕の救いは至りません、将何為乎(はた何をか為さん)《いったいどうされるのですか》?」

 燕將は書をみて、泣くこと三日、猶予(ゆうよ)(惑って)自ら決することができませんでした。燕にかえろうとしても、すでに王との間に(げき)(いさかい)がありました。齊にくだろうとしても、齊で殺した(とりこ)がはなはだ(おお)く、すでに降った後に(はずかし)められることを恐れました。

 喟然(いぜん)として(たん)じて申しました。「人に我を(じん)させるよりは,むしろ我、自ら刃せん!」

 遂に自殺しました。

 聊城は乱れ、田單は聊城に()ちました。帰って、魯仲連のことを齊王に言い、彼を(しゃく)しようとしました。

 仲連は海上に逃げました、海にこぎだしたのでしょうか、申しました。

(わたし)は富貴となって人に節を屈するよりは、むしろ貧賤であって世を軽んじ志をほしいままにしたいのだ!」

 逸民(いつみん)(世を避ける隠者)の考え方、というべきでしょうか。

 魏の安厘王(あんきおう)が天下の高士を子順(孔子の子孫、前出か)に問いました。

 子順は申しました。

「世にそのような人はいないでしょう。もしその次を考えるのであれば、それは魯仲連でありましょうか!」

 王はおっしゃいました。

「魯仲連は(つと)めて(努力して)そのようなことを()す者である、自然を体するのではない」

 子順は申しました。

「人はみなこれを(努力して)作すのであります。作して()まなければ、そこで君子と成ります。これを作して変わらなければ、習慣になり、それを体することが成る(できる)のです。そしてそれが自然というものなのです」

 ここでは『自然』ととっていますが、『体自然』と漢文ではなっており、体、自ずから然り、とでも読むのかもしれません。我々の思う、『自然』という概念とは少しずれており、老荘の思想のにおいもするようですが、わたしにはわかりません。

 ともかく、昭襄王のあとをついだ孝文王の時代は、三日で終わったと『通鑑』はしています。

 ただこれについても付け加えると、『文』という諡はかなり名誉ある諡で、周の文王のことなどを考えていただければ孝文王という諡が引っかかられる方はおられないでしょうか。

 荘襄王がすぐに跡を継ぎ、さらにこの後、秦の始皇帝が後を更に間を置かず継いでいきます。

 この孝文王という人物は、実在したのか、あとからまつられたのか、非常に興味のある人物ですが、詳細はわかりません。誰か考証家の論があるかもしれませんし、『史記』などで違った年代区分けの記述があるかもしれませんが、ここではわからないとし、次に話を進めたいと思います。

 時代は、荘襄王の時代に入ります。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み