不思議な人物・范睢の登場
文字数 1,827文字
穰侯は客卿の竈を秦王に言い、齊を伐たせ、剛、壽を取って自身の陶の邑を広げました。
話は遡ります(初め、とあります)、魏の人に范睢というものがおりました。魏の中大夫の須賈に従って齊に使いしました。
戰国の時代は、多くの国は周の制をまね、上、中、下の三つの位の大夫を置いておりました。その上、中、下のうち、須賈は中の位の大夫だったようです。漢の百官表によると、「中大夫は論議を掌る」、とあります。その部下ですから、范睢は弁論に長けた人物であったことが推測されます。
齊の襄王は范睢の弁口を聞き、感心したのでしょう、個人的に范睢に金と牛、それに酒を賜いました。須賈は以為いました、睢は国の陰事を齊に告げたのだ、と。帰って自分の属する相、魏齊に告げました。
魏齊は怒りました。笞で范睢を撃ち、脅を折り,歯を摺きました。睢は佯りて死んだふりをしましたので、その体を簀(荻や葦でできた編み物、敷物、南方では竹を用いるが、北方では荻などを用い、薄いという)で巻き、廁の中に置き、客の醉った者をして更に范睢に溺(小便)させました。そうやって後のものの見せしめにし、妄言をするものをなからしめたのです。
范睢は守者にいって哀願しました。
「よく私を出してくれたら、私は必ず厚く感謝することがあるだろう。」
守者はそこで、簀の中の死人をすててもいいですか、と魏齊に請いました。
魏齊も醉っており、言いました。
「可矣。」
これが、運命の分かれ目になりました。
范睢は出ることができました。魏齊は後悔しました。また召して范睢を探求しました。魏の人で鄭安平という人物が、ついに笵睢に指示して亡げ匿れさせ、姓名をかえて張祿と名乗らせました。
秦の謁者の王稽が魏に使いした時、范睢は夜に王稽に見えました。
謁者とは秦の官吏です。漢もこれにのっとった官があったようで、「殿上の時節の威儀を掌る。謁者僕射一人を謁者台の率とし、その下に給事謁者がおり、灌謁者がおる」、と漢の記録(志、『漢書』百官志か?)にのせているようです。謁者という字から考えるに、拝謁時の決まりを取り締まるものでしょうか、人を見る目をこの人は持っており、そしてそれを王に繋ぐことができたようです。
王稽は潜伏させて車に載せて一緒に秦へと帰り、范睢を王に推薦しました。
王は范睢と離宮に見えました。
范睢はまた佯って永巷を知らないふりをして、その中へと入りました。如淳という学者によると、永巷とは後の掖庭(後宮)である、とあります。一方、顔師古という学者が言うには、永とは、長いである。もともとは宮中の長い巷(廊下)であり、あるいは宮中の獄をいうのである、としています。
後宮か、獄かでけっこう違いがあるような気がするのですが、『通鑑』の記載を見るには、次に宦官(宮刑を受けた官吏)が出てきていることから、後宮の意でとっているようです。ここではそのような雰囲気で続けます。
王がやって来られて宦者が怒って范睢を逐い、申しました。
「王がいらっしゃるぞ!」
范睢は謬りて申しました。
「秦にどうして王がおろうか、秦には独り太后(宣太后)と、穰侯がいらっしゃるだけであるぞ!」
王は微かにその言葉を聞き、そこで左右を屏ぞけて、跪きて請うて曰いました。
「先生は何をもって幸いに寡人にお教えくださるのです?」
范睢は対えて申しました。
「唯唯。」
このようなやりとりが三回ありました。
この辺の描写はなかなか面白いところです。よく読んでみましょう。范睢は大声で、太后、穰侯の「悪口」を言ったのではありません。逆です。大声で、太后、穰侯を褒めてみせたわけです。しかも後宮の中はおそらく太后の勢力が張り巡らされているのは当然のことでしょう。太后、穰侯は伝え聞いても悪い気はしない。しかも范睢はそれを王(昭襄王)の目の前でやってみせたわけです。巧妙だと思いませんか?そしてことさらに王の「お教えください」という願いを、あごの先で断ってみせたわけです。この人の動かし方の妙、范睢という人物が、ただものではなかったことがわかります。
しかし、さらに私が感心するのは、昭襄王という王が、この人物は、太后や穰侯を単純にほめているわけではない、と見抜いたうえで、さらにその才能を引き出そうとしたことです。
王は粘ります。王はおっしゃりました。
「先生は最後まで不幸にして寡人にお教え下さらないのですか?」
その請願、実に四度、范睢はついに心を開きます。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)