当時の国々の位置について
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威王は孫臏に会い、兵法について質問しました。その能力を知ったのでしょう、己の師として抜擢します。
『
では、再び当時の状況に戻りたいのですが、位置関係がわからないと、理解が深まらないかもしれません。
簡単にこの当時の各国の位置について触れるだけ触れておきます。
地図で説明できない以上、極端な単純化をして説明します。
こう考えてください。西方に秦という国があり、南方に楚という国があり、東方に斉という国があります。いずれも広大な領土と富強を誇った大国です。北方には燕という国があったのですが、北方にあること、土地が寒い土地であるため、やや国力は落ちたとおもわれます。
この四つの国に囲まれて、中央の地域に、かつて
七つの国の領土は、当時、国というものは都市国家の集合であるのではなかったかと考えられるので、入り組んで、あいまいであったのではないかと考えられます。
この七国のほかに、特に斉と楚の国境、韓の東あたりにある
周りを囲む四国のうち、
秦は
中国の南半分、揚子江流域は非常に肥沃な土地で、のちに時代が下ってからは、南方のみで中国全土の食料を生産するようなこともあった、と聞いたこともあります。
ともかく、この当時は南半分はまだ未開の土地であった。秦、楚、燕などは後進の国で、文化的に遅れていたと考えてもいいかと思います。
一方で中央の韓・魏・趙は当時の盟主、東周の洛陽の近くに国家を保っていたこともあり、どちらかというと進んだ文化を持っていたと考えられます。
これらの中央の国々から周辺の国々へ文化が波及する形で中国の文化は発展したのかもしれません。魏で学んだ衛鞅が秦へ行って制度を変えたのも、同じく魏で学んだ孫臏が斉に戻ってから活躍するのも、その一つかもしれません。