荘襄王の時代(上)ー信陵君、再び秦を遁走させるー
文字数 1,587文字
時代は莊襄王 の時代に入ります。
莊襄王の元年(B.C.二四九)呂不韋 が相國 になりました。
東周 の君が諸侯と秦を伐つことを謀りました。王は相國に師を帥 いさせ東周を討滅して、東周の君を陽人 の聚 に遷 しました。周はことごとくまつらなくなりました。
のちの学者である皇甫謐 の言葉を注は引いて語らせています。
周はおよそ三十七王、八百六十七年である。周が天下をたもち、その先祖である后稷 をまつってそして天に配 し、文王 を明堂 (学校か、祭祀の場)に宗 としてまつってそして上帝 (天の神)に配 (配食か)し、宗廟 (宗族の廟か?)に血食 (お祭りには生き物を犠牲にするのでそのことか)すること八百六十餘年であった。
西周はすでに亡びたが、なお幸いに東周はよくその祀 を守ったが、東周もまた秦の滅すところなって、そしてことごとく祭らなくなったのだ、と。
周は亡ぶこととなりました。およそ七邑を秦が保有しました。河南 、洛陽 、穀城 、平陰 、偃師 、鞏 、緱氏 の七つです。
河南・洛陽の十萬戸で相國の不韋を封じ、文信候 としました。
蒙驁 が韓を伐ち、成皋 、滎陽 を取り、初めて三川郡 を置きました。
楚 が魯 を滅ぼし、魯の頃公 を卞 に遷し、家人 としました。
ここに孔子を輩出した国、魯が滅んでいます。
二年(B.C.二四八)
日食がありました。
蒙驁が趙を伐ち、榆次 、狼孟 等の三十七城を取りました。
楚の春申君 が楚王に言って申し上げました。
「淮北 の地(淮水の北の地)は齊と国境を接しております、その事は急でございます、お願いいたしますに、淮北を郡とし江東 (という行政区域)に封じていただけんことを。」
楚王はそれを許しました。
春申君はそこで呉 の故墟(古い町、城)にきずいて(自らを封じ、呉を)都邑としました。そして周辺を治めました。宮室は極めて盛んになりました。
注は春申君が自己の利益を優先したことをなじっていますが、ごく短い文なのでここでは省きます。
三年(B.C.二四七)
王齕 が上黨 の諸城を攻め、ことごとくそれらを抜き、初めて太原郡 を置きました。
蒙驁 が師を帥いて魏を伐ち、高都 、汲 を取りました。魏の師はしばしば敗れ、魏王はそれを患 い、そこで人をして信陵君 を趙に請わせました。信陵君は罪を得ることを畏 れ、還 ることを許しませんでした。門下に誡 めて申しました。
「あえて魏使のために便宜を図るものがあれば死す!」
賓客にあえて諫めるものはおりませんでした。
どれほどの時間が過ぎたのかは知りませんし書かれてはいません。毛公 と、薛公 (毛さん、薛さん、市井にいたもので、信陵君に礼遇されていたもの)が信陵君に謁見して申しました。
「公子の諸侯に重んぜられる理由は、ただ魏があるためでございます。今、魏は急を告げておるのに公子は恤 れません、一旦秦の人が大梁 (魏の首都)に勝てば、先王の宗廟を殲滅 するはずです、公子はまさに何の面目もって天下に立とうとされるのです!」
語がまだ終わらないうちに、信陵君の顔色が変わり、駕 (乗り物)をはしらせて魏へと還りました。
魏王は信陵君をささえて泣き、そして上将軍としました。信陵君は人をして援 を諸侯に求めさせました。
諸侯は信陵君がまた魏の将となったことを聞き、みな兵を派遣して魏を救いました。信陵君は五國の師を率いて蒙驁を河外にやぶり、蒙驁は遁走 しました。信陵君は追って函谷關 に至り、これを抑えて還りました。
ここに信陵君は再び秦の軍を撃退しました。邯鄲 の囲みを解いた手並みといい、毛公、薛公の諫言を聞いてすぐさま魏へと赴き、颯爽 と現れて秦軍をやぶる様子といい、信陵君には英雄の面影があるかもしれません。
ただそれは、部下に、死を賭してでも諫言をさせようとさせる、人間的魅力によるのかもしれません。これは徳や、仁というものとは少し違うものかもしれませんが、大きな魅力だったのかもしれません。
莊襄王の元年(B.C.二四九)
のちの学者である
周はおよそ三十七王、八百六十七年である。周が天下をたもち、その先祖である
西周はすでに亡びたが、なお幸いに東周はよくその
周は亡ぶこととなりました。およそ七邑を秦が保有しました。
河南・洛陽の十萬戸で相國の不韋を封じ、
ここに孔子を輩出した国、魯が滅んでいます。
二年(B.C.二四八)
日食がありました。
蒙驁が趙を伐ち、
楚の
「
楚王はそれを許しました。
春申君はそこで
注は春申君が自己の利益を優先したことをなじっていますが、ごく短い文なのでここでは省きます。
三年(B.C.二四七)
「あえて魏使のために便宜を図るものがあれば死す!」
賓客にあえて諫めるものはおりませんでした。
どれほどの時間が過ぎたのかは知りませんし書かれてはいません。
「公子の諸侯に重んぜられる理由は、ただ魏があるためでございます。今、魏は急を告げておるのに公子は
語がまだ終わらないうちに、信陵君の顔色が変わり、
魏王は信陵君をささえて泣き、そして上将軍としました。信陵君は人をして
諸侯は信陵君がまた魏の将となったことを聞き、みな兵を派遣して魏を救いました。信陵君は五國の師を率いて蒙驁を河外にやぶり、蒙驁は
ここに信陵君は再び秦の軍を撃退しました。
ただそれは、部下に、死を賭してでも諫言をさせようとさせる、人間的魅力によるのかもしれません。これは徳や、仁というものとは少し違うものかもしれませんが、大きな魅力だったのかもしれません。